「法を超えた救済を」ジャニーズ性加害問題で提言した理由 林眞琴氏が語る危機管理の鉄則
●特捜部での苦い思い「私は取り調べが下手」
1983年、検事に任官。以来39年余りのうち、在フランス日本大使館勤務の3年間を除き、検察庁と法務省にほぼ18年ずつ勤務した。刑事局の国際課長として日韓犯罪人引渡し条約、日本が初めて外国と結んだ共助条約である日米刑事共助条約にも携わった。 東京地検の特捜部には2度入っている。リクルート事件や旧第一勧業銀行利益供与事件など大型の贈収賄事件、企業犯罪等の捜査に従事した。 上司の一人に“鬼の特捜部長”との異名をとる故・熊崎勝彦氏がいた。旧第一勧銀事件の捜査にあたる際、特捜部長だったのが熊崎氏だ。 「熊さんの取調べを実際に見たことはありませんが、人生経験が豊富だからこそ、時に厳父のように、時に母のように、時に同僚のような取調べができたのでしょう。人間味のある素晴らしい人でした」 林氏は「私は取調べが下手だった」と謙遜するが、特捜検事としてのプレッシャーの大きさは想像に難くない。 「検事は取調べがうまくなければ評価されないと思い込んでいた。うまいとは自白調書をとれることです。当時は取調べでの供述調書が裁判所でも非常に重用されました。被疑者が事件に関与している心証があるのにそういう調書がとれない時は非常に苦しかった」 この時、痛感したことがある。若い検事は「自白をとれ」と発破をかけられる。「他は喋っているぞ」と聞かされたら、どんどん焦りが募り、無理な取調べに駆られてしまいかねない――。 第一線の現場で見えた刑事司法の課題は後々、大きな意味をもつ。
●転機は2003年「役人としての人生を変えた」
林氏のキャリアで特徴的なのは、検察官と行政官が半々であることだ。 「法務省での行政官としての18年間の方が、役人としての人生の転機になるような案件もあり、結果的にはよい仕事ができたように思いますね」 大きな転機は、2003年だった。前年、名古屋刑務所で複数の刑務官が受刑者に暴行を加え、死傷させていた事実が発覚した。刑務所は法務省矯正局に「自傷による死亡事故」と虚偽の報告。法務省はそれに基づき、国会でも「自傷事案であり問題ない」と答弁していた。 社会から大きな反発を招き、法務省は監督責任を問われることになった。矯正局長、総務課長は更迭。刑事局国際課長を務めていた林氏に矯正局総務課長の辞令が下された。矯正局長は横田尤孝氏。後の最高裁判事だ。 逆風の中、立て直しのための行刑改革を担当することになった。この時の経験が「自分の検事の人生、役人の人生を変えた」という。 「刑務所や受刑者の実態を初めて知ったんですね。刑事手続は犯罪を防止するためです。裁判はその一里塚であって、刑罰が有効に機能して初めて刑事政策の目的を達するわけですから、再犯防止につながらなくては意味がない。しかし、当時の自分は、検事でありながら刑務所のことに関心を持っていませんでした」 出所後に社会の中で受け入れられていたのなら再犯をしなかったであろう受刑者がいることや、累犯障害者によって刑務所がまるで福祉施設のようになっている実態を初めて知った。林氏は「これまで自分がやってきたことは自己満足だった」と、衝撃を受けたという。 同じ頃、累犯障害者や刑務所の実態を詳らかにした元受刑者がいた。元国会議員で秘書給与詐取事件で実刑判決となった山本譲司氏だ。著書『獄窓記』(2003年)が大きな話題を呼ぶ。林氏は山本氏を全国の刑務所長が集まる会議の講師として招いたこともあった。 「検事も裁判官も判決以後のことには興味がなかった。多くの弁護士もそうだったと思います。刑務所から出所後、社会に受け入れてもらえなければまた罪を犯して戻ってくる。二度と犯罪をしなくてもいい環境を社会の側で作り、社会も一緒になってやらないと刑事手続だけでは再犯防止はできない。そのことに初めて気がつきました」 当時の事務次官から監獄法改正までは異動させないと命じられた通り、行刑改革そして監獄法廃止を実現させた。2005年、文語体、カタカナで書かれた明治41年制定の監獄法は「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」に生まれ変わった。 矯正処遇に刑務作業だけでなく新たに教育的処遇が加えられた画期的な改正であった。 過去にも3度(1982年、87年、91年)改正が試みられていた。しかしいずれも実現していない。それが何故、この時、改正に至ったのか。 「過去に実現しなかったのは、日弁連は代用監獄制度の廃止にこだわり、警察庁はそれには絶対に反対という立場だったから。法務省も刑務所の近代化はしたいけれども、代用監獄を一気に廃止するなんてことはできない。法務省と警察庁の連携も悪かった。結局、三者が自分の主張にこだわった結果、廃案になってしまったのでしょうね」 「名古屋刑務所事件が出発点となって、この不祥事を二度と繰り返させてはいけないという思いが法務省、警察庁、そして日弁連にもあった。一刻の猶予もないと。三者がこの時、様々な対立を乗り越えて一歩前に進もうという腹の底での合意があったから改正できたのではないかと思っています」 過去、実現できなかった改革も、組織が危機を迎えたタイミングであれば成し遂げられる。この時の経験は、後に続く改革でも生きてくる。