「現代サッカーはあまりにも“平均的”で退屈で、もうハイライトで十分かもしれない」【特別寄稿】
問答無用のスーパースター
何度問いかけたって、足りない。観客を条件反射的に席から立ち上がらせた、あのアナーキズムな天才たちはどこへ行ったのだろうか? 自分を主人公とする戦いとチームの戦いと、“二つの試合”に同時に臨んでいたあの選手たちはどこへ行ったのだろうか? 監督に食ってかかる選手を最後に見たのは、いつだったのだろうか? すべての問いかけは、この現代フットボールの虚無の穴に吸い込まれていく。 アルフレド・ディ・ステファノ、ペレ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ、ジーコ、ジネディーヌ・ジダン、ロナウジーニョ、リオネル・メッシ……彼らは問答無用のスーパースターだった。フットボールという楽譜を自分なりのやり方で解釈し、即興もふんだんに盛り込み、自分の内にある本能や衝動を大切にしてボールを蹴った。ベンチから彼らに“フットボール”を教えるのは、無粋でしかなかった。 もちろん、現代フットボールだって偉大な才能を生んでいないわけではない。ヴィニシウス・ジュニオール、キリアン・エンバペ、アーリング・ハーランドは現在、世界で最も決定的な存在と称せる3人であり、凄まじいスペシャリストである……。が、結局はトータルフットボーラーではない。 彼らはピッチ上の限定されたエリアで爪を尖らせて、そのプレーでチームに勝利やタイトルをもたらす。しかし過去の偉大な選手たちと比べれば、その支配力はピッチ全体に及んでいるわけではなく、限定されている。片や、かつての“決定的な存在”は、その足元にボールが届けばピッチのすべてを支配した。観客も同じく芝生に立つ残りの21人も、その選手がどんなことをしでかして、試合にどれほどの影響を与えるのかを、固唾を飲んで見守った。「メッシこそが試合なのだ」。そんなことを語る人だっていたほどだ。
現代サッカーが“殺した”もの
世界最高クラスの選手から感じ取れる違いにも表れる通り、“過去と現在のフットボールの関係性”は、かつてないほどに薄れている。今日の学術的かつフィジカル的なフットボールはどうやら、私たちが知るフットボールを殺めてしまったようだ。本能やストリートに由来する、閃きに重きを置いた私たちの愛するスポーツは、もう戻ってくることはないのだろうか? ……未来は、決して明るくないように思える。 現代フットボールは行き過ぎた分析の中で行われている。チームパフォーマンスのディテールをミリメートル単位で管理し、リスクを極力排除して、つくられた均衡の中、スペシャリストに数少ない適切なタイミングで効果を発揮させる。かつてのフットボールが演劇性&創造性あふれる舞台だとしたら、今は世界征服戦略のボードゲーム“リスク”を見ているかのようだ。……無論、誰かがプレーするボードゲームを横から見ているよりも、演劇の舞台を見ている方が、ずっと楽しいと思うのだが。 現代フットボールはまた、以前のような純粋なフットボール的な能力の高さよりも、知識と道具で優位に立つスポーツだ。勇敢かつアグレシッブなプレーを見せるハンジ・フリックのバルセロナにしても、新たな道具なしには成り立ない。あのハイライン&オフサイドトラップは、半自動オフサイドテクノロジーなしでは無謀な挑戦だったろう。運を人(副審)に任せるのは、あまりにもリスクがあり過ぎる。