「アメリカの球団はほぼ絞れています」大谷翔平もやらなかった「二刀流で直接米球界へ」小中高一貫進学校・桐朋高の“怪童”森井翔太郎とは何者か
自由奔放に突破した小学校受験
「ブロックを積み上げたり、今考えると特殊な受験勉強をやっていたのですが、わざと崩したりして怒られたりしていました。受験本番も、紙に描いてあるエプロンの形をはさみで切るのですが、自分はそれを真っ二つに切ったらしいです(笑)。それで合格したのは、奇跡的ですよね」 当初はサッカーをやっていたが、近所の友達から勧められ、小1秋から府中市の学童チーム「住吉ビクトリー」で野球を始めた。そして小2秋に「武蔵府中リトル」に移り、軟式から硬式へと転向する。これが、メジャーに憧れを持つ一つのきっかけとなった。 「リトルリーグはアメリカが発祥で、大会にメジャーリーグの方が来てくれていたりしていたので、自然と興味を惹かれていきました」
青木宣親に出会ったことも
当時アストロズに在籍していた青木宣親さんが野球教室でチームを訪問したこともある。「うわ、本物だ……」。現役メジャーリーガーの技術に触れ、感動した記憶も残っている。 本場の野球を身近に感じながら、全国優勝を2度経験すると、小6時にはライオンズジュニアにも選出。「自分が見たことがないようなレベルの選手がいっぱいで、そこで最初の挫折を経験しました」というが、高いレベルで揉まれながら、野球選手としての基礎を身につけていった。 中1でその後の野球人生を決めるターニングポイントが訪れた。練馬北シニアに入部するが、小6時に腰椎分離症で半年ほど運動が禁止された影響もあり、硬式は体に負担がかかった。身長も当時は154センチほどしかなく、投手、打者として突出したものがなかったこともあり、夏休みから桐朋中の軟式野球部でプレーすることにしたのだ。
軟式転向というターニングポイント
「小5くらいまでは通用していたんですけど、小6から成長がかなり遅くなり、ケガもあったので、硬式では通用しないなというのはありました。凄く迷いましたが、ここが一つの分岐点で、野球人生を歩む上で、どういう道を進んでいくかというのが決まったかなと思っています」 もしここで硬式を続けていたら、その後の爆発的な成長はなかったかもしれない。桐朋中では、ただやみくもに数をこなすよりも、まずは柔軟性を上げ、ケガをしない体づくりを優先した。ヨガインストラクターの母・純子さんから勧められたヨガを取り入れることで、骨格の歪みが改善。竹のように強くてしなやかな体へと変化するに伴い、身長も伸び、卒業時には178センチにまで達した。 「野球と一見関係のないような動きでも、呼吸と動きを連動させるということは凄くつながっています。どのタイミングで息を吸って、どのタイミングで吐くのかというのを意識するだけでも違いますし、ヨガのおかげで、より効率的に練習ができるようになったと思っています」
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