「恵子ちゃん、お帰りなさい」社長初日に迎えた声 フジワラテクノアート・藤原恵子社長
70年4月、兵庫県西宮市の神戸女学院大学文学部へ入学。自宅通学か寮に入るのが規則で、通うのは無理だから、初めて親元を離れて校内にあった寮に入った。寮は社会に出る前のミニ社会。気づかなかった自分の至らない点を知ることができて、貴重な経験だ。人格が形成されたのはあの4年間だ、と思う。 ある日、隣の部屋の先輩に誘われ、先輩の祖母の茶道教室へいった。帰郷したときに茶道好きの祖母に話すと、祖母は礼と挨拶へいき、恵子さんの縁談の世話も頼んできた。紹介されたのが宇澤善也さん。3歳上で、大阪大学工学部溶接学科を出て大阪市の鉄工所にいた。養子縁組を決め、74年3月に卒業、10月に結婚して岡山市に住む。 夫が偉いなと思ったのは、父と意見の対立はあったかもしれないが、父は営業畑、自分は技術で会社を盛り立てようと、立ち位置を決めていた点だ。父は海外営業が好きで、醸造機械を韓国や中国へ輸出した。いま、醤油やみそ、酒などをつくる醸造機械を27カ国へ輸出。ブラジル、タイ、台湾、中国に、藤原家と親戚付き合いをしてくれる客がいる。父の最大の遺産だ。 ■いま開花している夫が開発した機械休暇増は長女の助け 夫のほうは「フジワラは技術の会社でなければいけない」と技術分野に力を入れ、開発した機械がいま花を咲かせている。麹をつくる機械は、国内シェアが8割。94年に新工場を岡山市富吉の岡山空港隣の工業団地に完成させ、事務所棟と開発棟もつくって95年3月に本社を移転。この間、社名をフジワラテクノアートへ変え、94年2月に父が会長、夫は社長になった。 自らは、社長に就くと「働きやすい職場」づくりを重ねた。リフレッシュ休暇を有給休暇とは別に年に1度、3日続けて取得できる。有給休暇は1時間単位で取れるようにして、子育てや親の世話だけでなく、趣味にも取り組みやすくした。 大学を出て食品大手に勤めていた加奈さんが転じてきて、制度の変更や新設の思いを伝えると、実現へ知恵と力を出してくれた。母が就業経験もなく社長になった姿をみて「これは、助けないといけない」との思いを強めたのだろう。いまナンバー2の副社長。6代目社長の候補だ。 次女の由佳さんも姉の後に総合商社を辞めて入社し、東京駐在の取締役として海外営業や人事・総務、採用を担当。人に会うのが好きな自分は取引先との交渉と交流、技術分野は専門の専務が受け持っている。 「家族」が役割を分担し、それが一つにまとまっていくようにいくつもの流れが『源流』に合流し、水量を増している。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年11月11日号
街風隆雄