「無粋な施政によって大阪の街はどんどん色褪せていく」作家・黒川博行(75)が振り返る青春の日々
いまは観光客だらけのジャンジャン横丁
今回、このエッセイを書くために、久々に新世界へ行った。動物園前駅から地上に出て、環状線のガードをくぐる。ガード下に出店はなく、ペイントも塗り替えられてずいぶん明るくなっていた。ジャンジャン横丁はシャッターを閉じた店もあるが、人通りは多い。串カツ屋の前には行列ができていた。ガイドブックを持ったミニスカートのおねえさんと眼が合ったので愛想笑いをすると、おねえさんはすっと横を向いた。怖い顔でわるかったな、おい―。観光客だらけのジャンジャン横丁は、わたしには寂しい。
ほとんどはポルノ系のビデオショップもなくなっていた
通天閣のほうへ歩いていくと、スマートボール屋がゲームセンターに変わっていた。スマートボールは緩くてレトロで、こんなに釘曲げてたら入るわけないやろ感いっぱいだったが、やはり時代には勝てなかったようだ。ゲームセンターに入ってみたら、客はひとりしかいなかった。 ひところお世話になったビデオショップもなくなっていた。カセットのほとんどはポルノ系で、店のおやじに「あっちは?」と訊くと、「こっち」と手招きされ、陳列棚の裏からご法度の裏ビデオを出してきた。ダビング物で映像はひどかったが、千円もしなかったと思う。いまも二、三本、家にあると思うが、『花のときめき』とか『春うらら』といったきれいなタイトルなので、よめはんには見つからないだろう。
泥棒市は見あたらず、おじさんたちはみんな齢をとっていた。
通天閣には修学旅行とおぼしき中学生の団体がいた。エレベーターを待つあいだ、テイクアウトの焼きそばやたこ焼きを食ったりしている。むかしはこの地下に将棋道場があり、伝説の真剣師、大田学が一局五百円の指導料で指してくれた。大田さんは近くの旅館を定宿とし、九十すぎまで生きたという。 通天閣からジャンジャン横丁にもどり、飛田商店街からあいりん総合センターまで足をのばした。泥棒市は見あたらず、おじさんたちはみんな齢をとっていた。ドヤはアパートやレンタルルームに改装され、“生活保護申請”の知らせが目立った。南海電車のガード下は小便の臭いが漂い、乳母車に犬を乗せたおばさんがゆるゆる散歩していた。 日本のアジア健在なり。世の趨勢に負けてはならじ、と切に願った。 花札でもなく、麻雀でもなく、ブラックジャックでもなく…作家・黒川博行(75)が人生で一番「ツキ」を発揮した瞬間 へ続く
黒川 博行/Webオリジナル(外部転載)