「無粋な施政によって大阪の街はどんどん色褪せていく」作家・黒川博行(75)が振り返る青春の日々
「ぼくら、浪人ですねん」 「勉強、できんのか」 「ま、そうです」 「ええ若いもんがぶらぶらしてんと働けよ」 ぶらぶらしてんのはあんたやろ―。 「今日は現場、休みですか」 「わしはな、動物が好きなんや」 「そうですか」 「けど、かわいそうやのう。狭い檻おりに閉じ込められてどこへも行けん」 「ほんまですね」 「けど、寝とっても餌くれるのはええな」 「かもしれませんね」 そんなふうに、ねじり鉢巻きのおじさんたちにはよく話しかけられたし、ときには焼鳥や焼酎をごちそうになることもあった。
無粋な施政によって大阪の街はどんどん色褪せた。
美大を出て就職し、よめはんといっしょになってからも動物園や新世界界隈にはけっこう行った。よめはんは此花区の生まれだが新世界を知らなかったので、ジャンジャン横丁や飛田商店街をおもしろがった。あいりん総合センターのあたりには“泥棒市”と称する露店が並び、左右不揃いの長靴やよれよれの作業服が百円、二百円で売られていた。 美術館の周囲はいまのような柵はなく、天王寺公園も出入り自由で、おじさんたちがよく酒盛りをしていた。カルカッタやマニラ、ホーチミンを彷彿とさせるアジア的情景は大阪ならではの値打ちものだったが、花博を理由に閉鎖され、有料の施設と化してしまった。 無粋な施政によって大阪の街はどんどん色褪せていく。そもそも、あの新世界にフェスティバルゲートのような人工娯楽施設が成り立つわけがない。
新世界から日本橋のでんでんタウンへまわる
高校教師を辞め、作家専業になってからも新世界には年に一、二回、行った。ジャンジャン横丁で串カツを食い、フリー雀荘や将棋倶楽部に寄る。将棋倶楽部で席主に段位を告げると、適当な手合いを組んでくれる(わたしは二・五段くらい)のだが、倶楽部にたむろする連中は勝負が辛く、いつもわたしが負け越した。将棋はパソコンでもできるが、やはり人間相手のほうが愉しい。 新世界から日本橋のでんでんタウンへまわることも多かった。中古のビデオショップで一本百円の映画ビデオを買い、オーディオ専門店でアンプやスピーカーを試聴する。わたしはマニアではないから真空管アンプや大口径スピーカーの魅力は分からないが、ワンセット三百万、四百万と聞くと、音がいいような気がしてしまう。近ごろのでんでんタウンは電器店がフィギュアショップに変わり、アーケードを行き交う買物客は色白、小肥り、眼鏡にリュックの若者が増えた。日本橋がミニ秋葉原になってどないするんや、え―。