「いつ死んでもおかしくない」経験から“販売しないおむすび屋”へ。47都道府県の味を求めて秘境を巡る
叩いたカツオを冷やご飯に混ぜた、宮崎の焼きおむすび「こなます」。薄い昆布を丸ごとご飯に巻いた津軽地方の「わかよまま」。豚バラ肉と油揚げ、かつお節を合わせた千葉の限られた地域でしか食べられていない「ごんじゅう」。 【全画像をみる】「いつ死んでもおかしくない」経験から“販売しないおむすび屋”へ。47都道府県の味を求めて秘境を巡る 日本のソウルフードであるおむすびを求めて、全国を行脚するおむすび屋がある。その名も「旅するおむすび屋」を運営する菅本香菜は、東京を拠点に月の半分は全国を飛び回りワークショップを開催する。
ワークショップで食の発信
全国の自治体や教育機関から引く手あまたのワークショップでは、各地域の食材を使って参加者全員でおむすびを作る。可能な限り生産者にも、食材を作る上でのこだわりを話してもらうことで、参加者の食への理解を深める狙いがある。 さらに最近は、2025年に開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)で販売する「日本のおにぎり」のレシピを象印マホービンと共同で開発するなど、活動の幅を広げている。
拒食症を経て気づいたこと
今でこそ食と人をつなげる活動をする菅本だが、そのきっかけは中学から高校までの6年間で、拒食症に苦しんだ経験にあった。人間関係でコンプレックスを抱いていたことがきっかけで、食べることが難しくなったという菅本は、食卓に座ること自体が苦痛だったという。「なんでそんなに細いのに食べないの?」と周りからの心配の声で、ますます食べるのが難しくなっていき、当時の身長160cmにして、体重は23kgまで落ちた。 「いつ死んでもおかしくないと言われるほどでした。この世から食べることがなくなってしまえばいいのにと思うほど、当時はどん底にいる気分でした」 拒食症が改善し始めた一つのきっかけとなったのが、高校2年生で復学した時に仲良くなったクラスメイトの存在だった。お昼の時間や週末のカフェでほとんど食べないでいる菅本を気にせず当たり前のように受け入れてくれたことで、自分を少しずつ肯定できるようになっていった。 高校卒業後は、地元の福岡を離れ、大学のある熊本で一人暮らしを始めた。友人との出会いで、「食べた方が楽しそう」と思えるようになったことに加え、家と学校の往復だったこれまでと環境が変わったことで、世界を広げると居場所が増えると実感した。大学に入学して2カ月後に実家に帰った時は、母が驚くほど回復していたという。 「正直『ガリガリだから人と上手くやっていけないんだ……』って拒食症に守られていた部分があって。気づいたらそのコンプレックスがなくなっていました」 さらに、食の仕事がしたいという思いを強くしたのは、大学一年生も終盤に差し掛かっていた2011年3月。東日本大震災が発生したタイミングで、母が病で倒れてしまったのだ。東日本大震災と、母の病、そして自身の“いつ死んでもおかしくない”と思われていた拒食症の経験。これらの出来事をきっかけに、「生きているのが当たり前ではない」と思い知らされた。 「食べものが身体を作り、食べる時間が生きる喜びにつながっているんだと改めて実感したんです。 ところが、周りを見渡してみると、食べることがあまりにも当たり前すぎて、食の大切さが疎かにされていることに気づいて……。 自分の体験を通して気づけたことがあるなら、それを伝えていきたいと思うようになりました」