「いつ死んでもおかしくない」経験から“販売しないおむすび屋”へ。47都道府県の味を求めて秘境を巡る
「食卓を囲む」大切さ
大学卒業後は横浜の不動産会社に入社し、新築マンションの営業を2年ほど務めた。関心のある食の分野ではないが、「本当に食でやりたいことが見つかった時に、それを伝える力をつけよう」という狙いだったので、ギャップは感じていなかった。 退職後は熊本に戻り、情報誌『食べる通信』の事業の立ち上げメンバーとして参加した。副編集長として各地を回る毎日だったが、熊本地震で取材が立ち行かなくなってしまった。そのさなか、クラウドファンディングを行う会社・CAMPFIREから声がかかり、日本全国の食に関わるメンバーとしてジョインすることに。入社後に、共通の知人の紹介で出会ったのが、「旅するおむすび屋」のきっかけとなった新潟の精米店と共同でイベントを開催している女性だった。 子どもから、忙しさのあまり食べることを疎かにしがちなビジネスパーソンまで、食の大切さをもっとハードルを低くして伝えていけないか。そんな思いが共通していたという二人。『食べる通信』で海苔業者を取材した経験から海苔にも詳しかった菅本は、彼女の協力で手始めに「旅するおむすび屋」の活動を始めた。 民泊として開放している家や精米店のスペースを借りて、細々と始めたワークショップは、次第にCAMPFIREの仕事も手助けとなり、全国各地に呼んでもらえる機会が増えた。こうして、副業と本業が入れ替わる形で2019年に独立した。 おむすびを生業にするとなれば、まず飲食業が頭に浮かぶ。あえて、おむすびの販売に軸足を置かない理由について、菅本はこう話す。 「拒食症が重症化したのは、『17時以降に食べないダイエット』をしていたからなんです。 16時台ってなるとまだ家族も帰ってきていない時間帯だから、一人でご飯を食べていて……。もし一緒に食事をしていれば、家族が異変に気がついていたかもしれない。この経験から、食卓を囲む時間の大切さを身をもって感じました。 だからこそ、おむすびの販売ではなく、人と人がつながれる時間になるワークショップを起点に活動してきました」