【山手線駅名ストーリー 秋葉原】「火除の神」秋葉権現が駅名の起源 : サブカルの街の歴史をさかのぼると古着街だった!
最初は「秋葉」の字は伏せられた?
行政地名の「秋葉原」は台東区にあり、秋葉原駅が立地するのは千代田区神田佐久間町。駅名の読み方は「アキハノハラ」「アキバハラ」と変遷し、「アキハバラ」に落ち着いたのは1911(明治44)年だった(鉄道ピクトリアル 秋葉原貨物駅の記録)。それまでは、文献によっては「アキバッパラ」「アキバノハラ」の記述も見られる。 秋葉は静岡県浜松市にある「秋葉山(あきはさん)本宮秋葉(あきは)神社」に由来する。ゆえに、「秋葉」の正式の読みは「アキハ」である。 なぜ、浜松の神社の名が、東京の駅名となったのか。 明治維新直後の1869(明治2)年、現在の秋葉原一帯を大規模な火災が襲った。「神田相生(あいおい)町の大火」で、1100戸の家屋が焼け落ちた。この惨事の教訓から、東京府は江戸時代にならって火除地を設置した。現在、駅電気街口の前にそびえる秋葉原ダイビルから、昭和通り沿いのヨドバシカメラマルチメディアAkibaまで広がる、約9000坪(約3万平方メートル)に及ぶ避難地だった。 さらに明治天皇の勅命で、火除の神を皇居(旧江戸城)から勧請して「鎮火社」という社(やしろ)を建てた。火災から数年後に作成された『東京大絵圖』『東京図測量原図』などには、「鎮火社」と記した空き地が確認できる。 この旧江戸城から勧請した火除の神こそが「秋葉権現」、すなわち浜松・秋葉神社にも祀(まつ)られている神仏習合の神だった。徳川家康ゆかりの浜松から分祀し、江戸城の本丸と西の丸の間に位置する紅葉山に鎮座していたという。
『東京図測量原図』等には鎮火社と記されているのみで、「秋葉」の文字は見当たらない。「秋葉」が登場するのは明治10年代になってからで、『迅速測図』などに「秋葉祠(ほこら)」の文字が見え始める。 当初、「秋葉」の名が使われなかったのは、明治政府の「廃仏毀釈(きしゃく)」政策と関係があったのではないかと考えられている。つまり神社の神と寺の仏を分離し、仏を廃する政策を進めているさなか、皇居から勧請した神さまが神仏習合であることは具合が悪かったのだろう。 それが、いつの間にか「秋葉祠」と地図に記載されるようになったのは、秋葉原から約5キロの場所にある向島・秋葉神社(東京都墨田区)が関係していると考えられる。