【山手線駅名ストーリー 秋葉原】「火除の神」秋葉権現が駅名の起源 : サブカルの街の歴史をさかのぼると古着街だった!
向島の秋葉神社は、同じく浜松から分祀した火除信仰の神社で、歌川広重の『名所江戸百景』に描かれているように、景勝地として人気があった。江戸の庶民は、火除の鎮火社と聞いて、「向島から秋葉権現が勧請された」と思い込み、「秋葉様がいる原っぱ」を意味する「アキハノハラ」「アキバッパラ」など、好き勝手に呼び始めてしまったのではないだろうか。 庶民に浸透しているなら駅名にしても不便はなかろうと、日本鉄道が正式な「アキハ」に原を「バラ」と読んで合体させ駅名とした。 駅は秋葉祠の敷地を割いて建設したため、祠は約3キロメートル北に移転することになった。これが現在、台東区松が谷にある秋葉神社だ(向島とは別の秋葉神社)。日本鉄道は神社を移転させる代わりに、駅に「秋葉」の名を残したいという思いがあったのかもしれない。 そうして付けた駅名が、今では世界中に知れ渡っていると思うと、何とも感慨深い。
神田川に架かる橋の名称に江戸の名残が…
名所は駅の昭和通り口を出て北に行くと見えてくる、神田川に架かる和泉橋を取り上げよう。津藩主・藤堂家(和泉守)の上屋敷があったことに由来する橋で、明治に入ってから神田和泉町という町名にも採用された。 和泉橋近くの神田川沿いは「柳原土手」といわれ、古着屋が軒を連ねていた。江戸の町人にとっては新品の衣服はなかなか手の届かないぜいたく品で、古着の需要が高かった。1852(嘉永5)年には2000を超える古着商人が江戸におり、その多くは店舗を持たない行商だったが、柳原土手には店が並んでおり、大変なにぎわいだった。
最後に紹介したいのが、和泉橋を渡って右に折れた所にある柳森神社だ。ご祭神は京都の伏見稲荷から勧請した倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ/宇迦之御魂大神[うかのみたまのおおかみ]と同一神)というお稲荷さんで、江戸三稲荷のひとつに数えられた。
柳森神社は富士山信仰の集団「富士講」の拠点でもあった。庶民が旅に出るおカネをおいそれと捻出できなかった江戸時代は、今のように誰もが富士山に登るのは難しかった。そこで信仰集団を組織し、資金を集めて仲間から登山する者を選んで代表として派遣した。その模様は江戸の年中行事を記録した『東都歳事記』に載っている。 また、境内に溶岩や土などを盛ったミニチュアの富士山「富士塚」を造成し、毎年7月1日に上って富士登山の気分を味わう「山開き」のイベントも行っていたようだ(柳森神社の案内板 / 千代田区教育委員会)。 だが、こうしたムーブメントは明治時代以降に廃れてしまう。そこで復興しようという動きがあり、富士講の石碑が1925(大正14)年から1930(昭和5)年にかけて、富士塚が1930年に再建された。しかし、それも第2次大戦後に忘れ去られ、富士塚は1960(昭和35)年に解体。一部の残骸と富士講の石碑が残った。 これらが保存され、千代田区の有形民俗文化財「富士講関連石碑群」に指定されている。千代田区に富士山信仰に痕跡が残っているのは、柳森神社だけである。