天才少女「ミシェル・ウィー」の“長過ぎる冬”を終わらせたある日本人選手の存在 「身長が低い人のようにプレーしてみようと」(小林信也)
ミシェル・ウィーは、1989年10月、ハワイのホノルルで生まれた。両親は韓国出身。ハワイ大学教授だった父に4歳からゴルフの指導を受け、5歳の時には100ヤード飛ばしたといわれる。母親はミスコリアで、85年韓国アマチュア女子チャンピオン。 【写真をみる】183センチの美女ゴルファー「ミシェル・ウィー」 “天才少女”時代の姿も
10歳の時、ミシェルは全米女子アマ予選を通過。12歳でアメリカ女子プロツアー初出場。13歳でメジャー大会のクラフトナビスコ選手権(現シェブロン選手権)9位。さらに2004年には男子ツアーのソニーオープン・イン・ハワイに出場し、予選2ラウンドを72、68で回った。決勝進出には1打足りなかったが、68は男子のトッププロたちをも驚かせた。そして同年3月のクラフトナビスコ選手権では4位に入ってさらに注目を集めた。 ミシェルは16歳の誕生日直前にプロ転向を宣言した。身長183センチの新星は、ゴルフ界を沸き立たせた。タイガー・ウッズ以上の才能とはやし立てるメディアもあった。 プロ初年度の06年はメジャー大会3戦を含む出場7試合のうち何と5大会でトップ5に入った。 ところが、天才少女のゴルフ人生は、誰もが思い描いた輝かしい常勝ドラマにはならなかった。
ボールが遠く感じる
07年に入って両手首に痛みを生じ、生来のゴルフが崩れてしまった。 09年にプロ初優勝、10年に2勝目を挙げたが少女時代の勢いは失せていた。両手首の痛みと苦悩はショットの中でもとくにパッティングに影響を与えた。最も不調な時期、ミシェルの平均パット数は1.892、119位まで落ち込んだ。12年の終盤、ついにミシェルはパットの改造を決意する。後年、彼女自身が、米ゴルフチャンネルのインタビューで次のように語っている。 「身長の低い人のようにプレーしてみようと思った。私は背が高いからボールがとても遠くに感じるので、ボールにすごく近づくようにしてみたの。そうしたらとてもよいフィーリングが得られ、パットが入り出しました」 それまでのスタイルはごく一般的。上体の傾斜角度は45度くらいだったが、上体が地面と平行になるくらい前傾するようになった。海外では「テーブルトップ」(天板)と呼ばれたスタイルに変え、14年には平均パット数1.764、4位まで改善した。 その14年、クラフトナビスコ選手権で2位に入った後、ミシェルにようやく勝負の時が訪れた。メジャー大会の全米女子オープン、最終日終盤まで、その年賞金女王に輝いたステーシー・ルイスと優勝争いを演じた。大詰めの17番ホール。この日4アンダーで猛追して来たルイスとの差は1打。ミシェルのティーショットはピンまで15フィートに止まった。バーディーチャンスだが、簡単な距離ではない。ギャラリーが見つめる中、ミシェルは上体を深く前に倒すテーブルトップスタイルで、真上からボールを見つめた。そして、見事にその難しいパットを沈めた。 18番、パーパットがカップに吸い込まれた時、天才少女の長過ぎた冬にようやく終止符が打たれた。その瞬間、グリーンサイドにいた女子プロ仲間たちがミシェルの元に駆け寄り、シャンパンシャワーを浴びせた。