「EUVの時代」を掴んだ寵児 飽くなき種まきが飛躍を生む
変化を迫られる前に変われ
■変化を迫られる前に変われ 同社がEUV光源を用いた検査関連装置の開発を始めたのは11年だ。 「市場が大きくなるかどうか、確信はまったくもてませんでした」 当時の社長、岡林理が振り返る。開発に着手したのは、当時、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が推進するEUV国家プロジェクトを担っていた、EUVL基盤開発センターから共同研究のオファーを受けてのこと。「私たちはマーケットインの会社なんです」と岡林は強調する。つくってほしいと言われたものを顧客とつくり、つくった後も磨き上げていくのが同社のスタイルだ。 「大企業は、どちらかというと標準製品を大量に売りたがります。でも我々は小さい会社で、お客様に寄り添って、製品を納めた後もさらなる要求に応えてと、大企業がやりにくいことをやってきました。もっとも、1台しか売れないものではいけないですし、逆に枠を広げ過ぎると差別化できない製品になってしまうので、難しいところではあるのですが」 EUV光源を用いた検査装置の開発を始めたころ、岡林は社長に就任して3年目だった。08年のリーマン・ショックで赤字になった開発集団のトップに立って最初にしたことは、事業ポートフォリオの再編だ。売り上げの半分近くを占めていた液晶関連装置の開発からごく一部を除いて撤退し、半導体向けの検査装置にほぼ全リソースを振り向けた。 「半導体産業への投資も先行きが不透明な状況で、正直、怖かったんですけれども、変わらなければいけないと」 頭にあったのはGEの元CEOであるジャック・ウェルチの言葉“Change before you have to──変化を迫られる前に変われ”だった。 「ここは勝負どころ、変わらないと手遅れになると社員にも説明しました。仮にリーマン・ショックが起こらなかったとしても、強みを棚卸しして、それを生かすことで、理想的な方向に行くと判断しました」 変えなかったものもあった。“世の中にないものをつくり、世の中のためになるものをつくる”という創業からの理念だ。 レーザーテックは新しい会社ではない。創業は戦後15年目の1960年。大手電機メーカーに勤務していた内山康によって設立された。半導体事業へは75年にLSI(大規模集積回路)用のマスク検査装置の開発で乗り出し、86年には社名を中核技術である光応用技術を打ち出した現在のものに変更。“毎年ひとつの新製品を開発しよう、それも世界ではじめてのものを”という精神のもと、開発を重ねてきた。 「常に新しいビジネスの種をまいていこうと。実際に芽が出るのが10のうち5つ、実が成って収穫できるのは2、3個かもしれないですが、積極果敢にまき続けないことには、収穫は絶対にできないわけですから」 従業員の7割はエンジニアで、売り上げの約10%を研究開発に投じている。ただ、ときには収穫までたどり着かないこともある。 「1台も売れなかったものもあります。夜明けが見えなかった時期もありました。それでもなんとかしなきゃいけないというか、それしかない、というか」 EUV光源を用いた検査装置という芽も出なかったかもしれなかった。半導体の量産現場でEUVリソグラフィーが実用化されなければ市場は広がらないからだ。扱いが難しいEUVでの半導体製造が夢物語のまま終わり、従来の波長のリソグラフィーが使われ続ける可能性もあった。しかし、芽は出て花が開いた。 2013年、オランダのASMLが世界で初めてEUV光源を採用した半導体製造装置を量産化。17年、レーザーテックが世界初のEUV光源を用いたEUVマスクブランクス検査装置を発表。これに続くEUVパターンマスク欠陥検査装置の発表が迫った19年、「時代が来た、と確信しました」。TSMCがEUV露光装置を使って最先端半導体の量産を開始した同年から23年6月期までの5年間で、レーザーテックの売上高は5倍超、純利益は7倍超に成長した。それを見届けて、23年度を終えた24年7月1日、岡林は15年間務めた社長を退き会長に就任した。 「本当は12年間くらいの任期と思っていたのですが、ずれこみました。EUV検査装置のビジネスの立ち上げが終わり、後継機種もお客様にお届けできたので、いい区切りだろうと。ここまで成長できるとは思っていなかったですし、世界中の社員がよく頑張ってくれました」