日本が捨てた毒ガス兵器で寝たきりに「震えが止まらない」「助けて」怒り苦しむ中国人女性の涙 #戦争の記憶
チチハル市で暮らす楊樹茂(よう・じゅもう)さん(60)もまた、被害者の一人です。 楊樹茂さん 「庭に敷くための土を購入しました。土に触れたとたん足が赤く膨れあがり、水疱ができました。水疱はどんどん大きくなりました」 2003年8月のことでした。土に触れた右足の痛みはどんどん強くなり、夜になると体全体に激痛が走り、吐き気が止まらなくなりました。次の日病院に行くと「イペリット(毒ガスの一種)中毒」だと診断され、そのまま入院することに。同じ土に触った複数の人が病院に運ばれたといいます。 妻と3人の子どもと暮らしていた楊さん。真っ先に考えたのはこれからの生活のことでした。 楊樹茂さん 「子どもは学校に通っていたし、稼ぎ手は私だけです。どうやって暮らしていけばいいんだろう」 当時、屋台でピーナツやスイカの種などを売る仕事をしていましたが、人々は「毒ガスがうつる」と楊さんを避けるようになり、商売を続けることができなくなってしまいました。 楊樹茂さん 「まるで、今のコロナのように、みんなが私を避けるようになってしまったのです。一緒に風呂に入るのも断られました」 仕事を探しましたが「毒ガスの被害者だ」といわれ、誰も雇ってくれません。収入を失ったことで妻は精神的に不安定になり、家を出て行ってしまいました。教育費が払えず、3人の子どもは学校を続けることができなくなりました。結婚や就職などへの差別を恐れ、子どもたちは今も父親が毒ガスの被害者だということを隠し、チチハル市から遠く離れた場所で暮らしています。 楊樹茂さん 「当時、我が家は裕福ではありませんでしたが、生活に困ってはいませんでした。わずかですが貯金もありました。屋台の仕事は好調だったのですが、まさかこんな打撃を受けるとは思ってもみませんでした」 毒ガスの影響で体調を崩しがちな楊さんに代わり、両親がゴミ拾いの仕事をして生活を支えました。 20年以上たった今も楊さんの足は痛み、赤く腫れあがっています。肌が焼けるような痛みがあり、うまく歩くことができません。痛みが強いときは意識がもうろうとし、時々熱も出ます。しかし病院に行くお金はありません。楊さんの寝室にはたくさんの市販薬が置いてありました。医者にかかることができないため、市販薬でしのいでいるのです。しかしそのお金すら、ままならないといいます。