「“不倫は文化”と書いた新聞には感心」スキャンダルの常連男・石田純一、丸裸にされる
「不倫は文化」とはひと言も言っていない
「あの場で、オレの言動が“軽い”とか言われてね。だったら、オペラなんてもう、はっきり言って人格破綻者が出てきて、不倫だらけでしょう。『蝶々夫人』だってそうだし。トルストイの『アンナ・カレーニナ』を否定するんですか? 事実を言って何が悪い?っていうことです」 『戦争と平和』と並び、トルストイの最大傑作と呼ばれる『アンナ・カレーニナ』の主人公アンナ・カレーニナは高級官僚の妻であり、夫以外の男との不倫が物語を形づくる。紫式部の『源氏物語』も、不倫・略奪愛が話の軸になる。 たしかに、古今東西、不倫抜きでは名作は語れない。 記者の質問に応じ、正確には「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある」と答えただけで、「不倫は文化」とはひと言も言っていない。 石田の本音を吐露した発言は的を射ていたのだが、代償は大きかった。 「CMやら何やらがキャンセルになって、約2億円の損害になりました」 深刻なダメージを受けた平成の色男だったが、本人からは本気で怒っている様子はうかがえない。 「(スポーツニッポンの)タイトルは秀逸」と客観視する余裕まである。 記事を書いた記者がどんな人物なのか、会いに行ったという。 尋常ならざる懐の深さが石田の真骨頂なのか。 その元トレンディー俳優を、バブル期に生まれた現在30代の女性たちに、どんな人物だと思っているのか聞いてみた。 「靴下はかないで靴をはく人」 「バラエティー番組の常連」 「東尾理子と結婚したおじさん」 ちなみに「トレンディー俳優」というコメントは皆無だった。
幼少期のアメリカ生活が人格形成につながる
幼いころ、純一少年はアメリカで4年間暮らしたことがあった。 父はNHKに勤務する報道畑のスタッフである。 不倫について思ったことを言葉にし、政治的発言を堂々とするところは、本人の資質もあるだろうが、イエス・ノーをはっきり意思表示するアメリカでの暮らしが影響しているだろう。 華やかな話題を振りまく息子同様、父・石田武も、“持っている男”だった。 1963年11月22日。テキサス州を遊説中のジョン・F・ケネディ大統領が、ダラス市内をパレード中に銃撃され死亡するという世紀の事件が発生した。 日本・アメリカ間初の衛星放送が行われるときだったために、この悲報が記念すべき衛星放送第一報になってしまった。 臨時ニュースを伝えたのは、石田純一の父・武だった。 「うちの親父と3人の部下でNHK初の衛星中継をすることになったんです。ケネディ大統領のパレードをダラスから中継して、スタジオから“おめでとう”ってコメントを出すはずだったんです。ところが暗殺されてしまったので、急きょ実況もやってしまった。うちの親父はアナウンサーでもあったので」 純一少年はアメリカから帰国していたので、目黒区の自宅で父親の緊急放送を聴いた。小学1年生だった私もこのときの緊急報道を鮮明に覚えている。 たしか日本時間では明け方だった。 日本初の衛星放送がアメリカから送られてくる、というのでNHKにチャンネルを合わせたら、「ケネディ大統領暗殺」の文字が映り、アナウンサーが悲痛な声で伝え出した。このときのアナウンサーが純一の父だったのだ。 「1964年の東京オリンピックのときに、もう1回アナウンサーに駆り出されて、あのボブ・ヘイズ、男子100メートル決勝、“褐色の弾丸”とか中継してました。ちょうど“持ってる人”なんですね」 1969年には、人類史上初のアポロ11号月面着陸の中継を担当した。石田武はNHKのエースだった。 「小さいときからよく映画館に連れてってくれました。映画の解釈がなかなか良かったですね。父は文化好きで、オペラ、クラシックが好きでした。家中にレコードがありましたから」 “文化”というキーワードは父親からの影響が大きいのだろう。 父をはじめ親戚にはテレビ局、大手新聞社に勤務する者が多かった。祖父は日本経済新聞の記者だった。純一少年も将来はメディアの仕事に就くことを夢見ていた。 ところが高校受験で、すべて落ちてしまった。中学での成績はよかったが、素行が悪すぎて、内申書に「要注意」と書かれてしまったのだ。色男、意外と荒くれ。 途方に暮れていると、都立高校の2次募集があり、名門の青山高校を受けた。高い倍率だったが、純一1人だけ受かった。強運というのだろうか。 1972年春、早稲田大学商学部に現役合格。ほどなく恋人の星川まりが妊娠し、結婚。演劇への関心が強まり、21歳で早稲田を中退、アメリカの演劇学校に通うことになる。この時期に離婚も経験する。子ども時代に4年間アメリカで暮らしていたので、英語力には自信があった。 演技と演出。どちらも数字で推し量れるものではなく、あくまでもセンスが重要になる。俳優に憧れていたが、より確実性をとって演出家の道を選んだ。 文化に理解のある父ながら、息子が進もうとしている演劇の世界に難色を示し、子どもを養っていけるような安定した職業を望んでいた。 2年間のアメリカ生活を経て帰国。 「戻ってきたときはもう大学をやめちゃってるし、就職はどうしようかなと。当時、就職氷河期で、自分らと同学年の連中はほとんど就職できなかったです」 芥川比呂志、橋爪功といったベテランが代表を務める演劇集団 円の演出部に入所した。