【吉田秀彦連載#4】選択権はなく…何だか知らないうちに「明治大学」に入学することに
【波瀾万丈 吉田秀彦物語(4)】自分は「柔道ではメシは食えない」と思っていました。オリンピックなんて、全く考えられなかった。そこまでの選手じゃなかったし、強化合宿に行って、上の選手とやると、みんな本当にめっちゃ強い。高校生でトップを取っても大学生、社会人には強いヤツがいっぱいいる。ボコボコに投げられるんで「上には上がいるな、ダメだこりゃ」と。だから手に職をつけて独立したかったので、大学には行かず柔道整復師の学校に行くつもりでした。 【写真】大学時代の吉田秀彦 神永(昭夫)先生(※)と大石道場の大石(康)先生は、新日鉄(現・日本製鉄)の柔道部の先輩後輩でした。大石道場の先輩がそのルートで講道学舎から神永先生の母校・明大、さらに先生の所属だった新日鉄に行っていました。親から「大学行ってくれ」と言われたら「俺には明治しかないんだ…」と他の大学のことは全くなかった。実際、自分に選択権はなく、明治から新日鉄へと進むことになるんです(笑い)。 明治大学柔道部では今度、原吉実先生が待っていました。最初の1年は寮に住まれていて、めっちゃきつかった…。毎朝6時からトレーニングやって「また講道学舎に逆戻りだよ」って。練習も長かった。大学終わって、寝技1時間、立ち技2時間の計3時間練習です。だから、まだ「早く柔道やめたい」と思っていました。でも練習したから、長持ちできたと思っています。 柔道で「やっていけるかな」と思えたのは、大学3年で嘉納杯(1990年)に勝った時ですね。それまでは五輪も世界選手権も全く考えていなかったけど、91年世界選手権に出られました。でも準々決勝で負け、五輪予選の講道館杯では内臓疾患を起こし1回戦負けしたんです。体から汗が出てこないし、体中に湿疹ができていた。それで試合後、救急車で病院に運ばれました。 内臓疾患の原因は減量のし過ぎでした。大学1年の時は80キロくらいしかなかったので、2キロくらいの減量でしたが、このころは90キロ以上あって14キロ減量していました。それも2週間くらいで…。食べずにひたすら走って落としました。当時は今と違って当日計量でしたから、減量終わってすぐに試合だったから、すごくしんどかった。 だから、翌年(92年)のバルセロナ五輪なんて、全く考えられなかったんです。 ※1964年東京五輪無差別級銀メダル。元全日本柔道連盟専務理事。故人(享年56)。
吉田秀彦