「生きているハチ公」の“意外すぎる姿”をナマで見た…!「都知事選出馬」ドクター・中松氏が明かした、驚愕の「発明半生」
泳ぎながら乾パンを食らった海軍学校時代
そんな中松氏の発明家人生はすでに5歳から始まっている。きっかけは、飛行機との出会いだった。 「当時、無我夢中でたくさんの模型飛行機を作りました。そうこうするうちに重力と揚力を一致させると遠くに飛ばせることに気がつき、『自動重心安定装置』を考えついた。僕にとってこれが生まれて初めての発明です」 長じて中松氏は、第二次世界大戦の終戦間際の1945年3月、海軍機関学校に入学する。理由は、中島飛行機(現在のSUBARUの前身)の創業者・中島知久平が同校の出身だったから。とにかく飛行機を作りたかったのだという。しかし、待ち受けていたのは想像以上に厳しい訓練だった。 「この頃、優秀な学生は海軍に入り、お国のために知力と体力を極限まで鍛えました。歴史から物理までありとあらゆる学問を学びつつ、日々のトレーニングもこなさないといけません。特にきつかったのは遠泳です。朝6時から夕方6時までぶっ続けで泳いで、遠くの島を目指す。 お昼の時間になると、ボートに乗った水兵が乾パンを海に放り投げるんです。僕たち学生はそれを拾って頭の上に乗せ、泳ぎながら食べないといけなかった。もう命懸けでした。でも、このときの経験があるからこそ、いまでも踏ん張れているんだと思います」 それからまもなくして、戦争は終わりを告げる。東大工学部に入学した中松氏は、卒業後に三井物産に入社。配属されたのは、もともと希望していた航空機課だった。
三井物産ではトップセールスマンに
「これがまた大変で。課された売上ノルマは月に2000万円。その頃の僕の月給、6400円ですよ? 同僚は接待や揉み手営業で『買ってください、買ってください』で売り込んでいたんだけど、それではノルマなんてとうてい達成できない。 だから僕は発明を駆使して売りました。夜中の工場でコツコツ作って完成させたのが、ヘリコプターから農薬を散布する装置。それまでも飛行機で農薬を撒く方法はあったんですが、葉っぱの上にしか農薬がつかないのが弱点でした。 でもプロペラの強い風圧で生じるヘリコプターなら、空気と農薬を地面でワンバウンドさせることができる。葉っぱの裏に隠れている虫の駆除も可能にしたのです。つまり、僕は単にヘリコプターを売るんじゃなくて、ヘリコプターを使ったソリューションを売っていた。あっという間に月4000万~5000万円を売るトップセールスマンになりました」 ただ、そんな絶好調の中松氏に転機が訪れる。同じく東大出身で、当時は松竹の専務を務めていた高村潔氏から新たな映画スクリーンの発明を依頼されたのだ。 「テレビに負けない映画を作ってくれ、と言われまして。いままで4:3だった映画のスクリーンサイズを、16:9の大きな画面にしたんです。レンズから、制御するコンピューターから全部イチから作ってね。 三井物産を辞めたのもこの発明の成功がきっかけ。どうせチャレンジするなら20代がいいだろうと、いまのドクター中松創研の前身となる『ナカマスコープ』という会社を立ち上げたんです」