【このニュースって何?】今年は昭和100年 → 日本の100年を振り返ると?
敗戦後の復興から「成長の時代」に
焼け野原となった日本は、そこから世界有数の経済大国にのし上がります。「経済成長の時代」です。戦後につくられた日本国憲法では、「戦争の放棄」がうたわれ、日本の防衛はアメリカ軍に頼ることになりました。その分、日本は経済に力を入れることができました。 戦後すぐに起きたベビーブームにより、60年代になると若い労働力がどんどん社会に出てきて、「高度経済成長」の時代を迎えます。64年に開かれた東京オリンピックや70年に開かれた大阪万国博覧会などは発展する日本の象徴的なイベントになりました。68年には、国の経済規模を表す名目国内総生産(GDP)がアメリカに次ぐ世界2位になりました。 高度経済成長は、73年の中東戦争で石油の値段がはね上がった石油ショックにより、終わりました。しかし、その後も日本人の心の中には成長神話が残り、86年から始まったバブル経済につながります。人々は土地や株を買いあさり、地価や株価は何倍にもなりました。実態を反映しない価格がいつまでも続くわけがなく、地価や株価は急落し始め、91年にバブル経済は終わりました。 このころ、世界にも大きな変化が起こっていました。アメリカを中心とする西側の資本主義国とソ連を中心とする東側の社会主義国がにらみあう東西冷戦が、東側の敗北の形で終わったのです。象徴的な出来事は89年の「ベルリンの壁の崩壊」です。ドイツの中心都市ベルリンは壁によって東西に分断されていましたが、民衆の力でその壁が壊されたのです。東側の国の多くは、経済を国が統制する社会主義をやめ、市場にまかせる市場経済の国になりました。冷戦の終結により平和が訪れるとともに、世界の貿易量が増えて世界経済は大きくなったのです。
バブル経済崩壊後に続く「縮小の時代」
しかし、日本はバブル経済の崩壊後、冷戦終結の恩恵をさほど受けることはなく、「縮小の時代」に入ります。地価や株価の下落は多くの企業にダメージを与えました。中でも大きかったのが金融機関です。膨大な不良債権を抱え、いくつかの金融機関は破綻(はたん)し、残った金融機関は合併や経営統合に追い込まれました。その間、融資は細り、返済は強引になり、貸し渋り、貸しはがしといった言葉が新聞をにぎわしました。経済活動は鈍り、需要がないため価格が下がる「デフレ経済」となりました。 企業の価値を示す指標に株式時価総額があります。株価と発行済み株式数をかけた数値で、今その会社を買う場合の値段を表します。その世界ランキングをみると、89年には日本企業が1位から5位までずらっと並んでいました。2024年のランキングでは上位にいるのはトヨタ自動車だけで、それも39位です。 GDPは2010年に中国に抜かれ3位に、23年にはドイツに抜かれ4位になりました。バブル経済が崩壊した後、「失われた10年」という言葉がはやりましたが、この表現は「失われた20年」「失われた30年」となって、まだ使われています。 経済が縮小している原因のひとつに、出生する子どもの数が減り続けていることがあります。この問題が認識され始めたのは「1.57ショック」があった90年です。1人の女性が産む子どもの数を示す出生率が、前年89年には1.57と戦後最低になったという発表があったのです。それまでの最低は丙午(ひのえうま)の66年で、1.58でした。丙午の出生率の低下は迷信によるもので、それより低い数字となったことで社会にショックを与えました。 しかし、その後も低下傾向は続き、2023年の出生率は1.20です。24年の出生数は68万人程度になると予測されています。これは戦後のベビーブームのピークである49年の4分の1ほどの数です。子どもの数が減ると将来の労働力や消費が減ることにつながります。現状から見ると、「縮小の時代」はまだ続きそうです。 100年を振り返ると、時代の変わり目がくっきりと見えます。ただ、当時を生きている人が見えていたわけではありません。戦争に突き進んでいった時代に日本が焼け野原になると思っていた人がどれだけいたでしょうか。焼け野原に立った人がバブルに浮かれて消費しまくる将来の人々の姿を想像できたでしょうか。バブルに浮かれていた人がデフレで苦しむ社会を思い描くことができたでしょうか。昭和150年や昭和200年の日本はどうなっているのか、未来は誰にもわからないのが興味深いところです。
一色清 ジャーナリスト