言葉が「効率的」になる時代に、小説を音読することの「意外な効果」
日本語を読み上げる快楽
母語の英語でも文章を読むのが遅いが、日本語となると倍遅くなる。幼い頃に習得した英語とは違い、日本語に出合ったのは14歳の時だ。若いといえば若いが、脳が新たな言語体系を自ずと組み込める時期はとっくに過ぎた年齢だ。それから26年間、日本語とともに過ごしてきて、この言語も自分の一部になってきたけれど、一方で今でも自分と日本語との間には一定の距離を常に感じ、その距離は読み書きするスピードをさらに遅くする。 言葉を単に意味や概念を伝えるための道具と考えるなら、第二言語で本を読んだり文章を書いたりする利点は見えにくいだろう。第二言語を使うと意味を干渉し得るものが増え、曖昧さが増し、ディスコミュニケーションの可能性が高まってしまう。物事の輪郭が、少し柔らかくなってしまう。言葉の効率化とは相反する行為だ。 だが言葉に求めているのが情報伝達ではなく、物質性であれば、第二言語の魅力が見えてくる。第二言語だと、無意識に言葉の音や形を無視して、概念に還元することはない。言葉が単なる意味の容器になって、透明な存在になることもない。読む時も書く時も、一字一句をじっくり味わいながら進んでいく。 昔受けた日本語の授業で、声を出して一行一行読み上げた時の快楽は今も忘れられない。ほぼ毎朝、目が覚めて最初にするのは、本棚からお気に入りの小説を手に取り、10~20分程度、音読することだ。声を出して、ゆっくりと読み上げて、息を感じ、声帯の振動を感じ、一つ一つの言葉を作り上げる唇や舌の感覚を楽しむ。関係代名詞を軸にして急旋回する英語と違い、動詞に向かって滝のように流れていく独特のリズム、くっきりとした母音の舌触り。読んでいる間は翻訳不可能な、文字ですら表現しきれない言葉の身体的要素を意識せずにいられない。 この快楽は、幼い頃絵本を読み上げていた時のものとさほど変わらないだろう。ページをめくるのは遅いかもしれないが、高速な黙読よりずっと充実した読み方だと感じる。 * 音読するのと同様に、オーディオブックや朗読の録音も日常的に聴いている。電車に乗ったり、通勤路を歩いたりする間はだいたいイヤフォンから流れてくる小説に没入中だ。以前はジムでも聴いていたが、ある日、ベンチプレスの最中に『痴人の愛』の面白い場面が流れたせいで思わず吹き出してしまい、危うく死にかけたことがあって、それ以来、運動中は音楽だけにしている。 オーディオブックや朗読などは、優れた技術を持つ声優が行う。言い間違えたり、言葉に窮したり、噛んだりすることはもちろんない。流れてくる声は、物質性を持つものの、それは磨かれた、非常に滑らかなもので、聞き手はその流れに乗ったまま、摩擦を感じることなく進んでいく。まるでまじないに耳を澄ましているような気分になる。 去年、初めて自作をオーディオブック化してもらうことになった。もとからのヘビーユーザーとしては大変嬉しいことではあったけれど、それと同時に、不思議な体験でもあった。 オーディオブックのデータが仕上がると、原作者として最終確認を行うことになった。いったん手放した作品はしばらく読み返したくない僕としては、あまり気が進まない作業だったけれど、頼まれた以上、一度最後まで聴かないといけない。イヤフォンを耳につけて、微かに顔を顰めながら、再生ボタンを押した。 声優の、心地よい声が耳に流れ込んできた。聞き覚えのある言葉だ。しかし、自分の書いた言葉とは、どこかが違う。言葉自体は変わっていないのに、別の人の肉声を纏い、力強く、滑らかに発声されると、まるで他人の言葉のように聞こえてくる。その声を耳にしながら、書いた時の状況を思い出す。数週間かけて推敲に推敲を重ねた箇所はたった数秒で軽く流れていく。深夜の執筆で、とっさに書き上げた一行は、かえって深い意図を託されたかのように、重要なくだりに聞こえてくる。自分自身で自分の作品をどこまで理解しているのか、一瞬分からなくなる。 朝起きて、お気に入りの小説のページをめくって読み上げている時に、この体験を思い出すことがある。その際に僕の喉から発せられている声は、誰のものなのだろうか。自分自身のものなのか、それとも作者のものなのか。あるいはどちらにも属しない、最初から言葉にあったものが聞こえてくるだけなのか。いまだに分からない。だがそれは単なる意味に還元できないものであるのは明らかだ。 * 次回は11月20日公開予定です。
グレゴリー ケズナジャット(作家)