言葉が「効率的」になる時代に、小説を音読することの「意外な効果」
自分は本を読むのが遅いと気づいた
僕は視力が絶望的に低い。朝から晩までつけているコンタクトレンズを外せば、顔から数センチ離れた文章すら読むことができない。だが、小学校5年生になるまではちっとも自覚がなかった。自分の視界しか知りようがないから、世界は誰が見ても、朧気な形と柔らかな色によって形成された集合体なのだと思っていた。黒板に書かれた文字を読み取ろうと、前かがみになって目を細めている僕に気づいてくれた先生に保健室まで連れていかれ、視力検査を受けさせられ、初めて眼鏡をかけた時の衝撃は大きかった。ものの輪郭はこんなにはっきりとしていたのか。世界はこんなに硬そうなものだったのか。 視力の低さは先天的なものなのか、成長とともに現れたものなのか、今や判断のしようがないが、母に言わせると原因は小さい頃に本を読みすぎたから、と明確だ。しかも暗い部屋で本を読んでいて、本を読む時は電気をつけなさいと何度も注意したけれど、聞いてくれないからこんなことになったのよ、と悲しそうに頭を振りながら言う。 小さい頃に本をたくさん読んでいたのは間違いない。図書館を歩き回って、低い位置から書架を見上げていたことは辛うじて覚えている。貸出は5冊までと司書に言われ、受付まで運んできたたくさんの本の中から5冊を慎重に選んでいた記憶もある。それで目を悪くしたという母の主張はさておき、自然に本というものに惹かれて、就学前から読書に耽っていたのは確かだ。いつも床の上に開いた本を前に胡座をかき、ゆっくりとページの上の言葉を声を出して読み上げていた。 * 視界と同じように、読書の感覚は人それぞれで、比較対象がなければ相対化できない。たとえば自分は本を読むのが遅いほうだが、これも気づくまでは時間がかかった。中学校や高校で、日本の「国語」に当たるアメリカの「英語」科目で多くの作品を読まされていたから、クラスメートとペースを比較する機会はあったはずだが、長時間本を読み続けることが苦ではなかったからか、読むのが遅いと実感することはなかった。 周りの人のほうが読むペースが速いことをようやく発見したのは、大学で文学科目を受けた頃だった。高校の必修科目と違って、大学の文学講義はスピードを求められ、毎週新たに一冊の課題作品を読まなければならなかった。シラバスについていくだけで睡眠時間を削っていたが、そこに参考書や資料を読む時間を加えると、優に僕のキャパシティーを超えた。 読むスピードを向上させる方法はないか、調べてみた。すると同じアドバイスに何度も出合った。文章を速く読むポイントは、音読しないこと。たとえ声を出して読み上げなくても、人は頭の中で「読み上げ」がちだが、その衝動を抑え、本格的に「黙読」を徹底しなければならない。言葉が持つ物質性をなるべく考えないで、意味や概念で内容を捉えれば、文章を読むペースが上がり、理解度も高まるという。 言われてみればなるほどと納得する。試しに実践してみると、最初はなかなか慣れないけれど、練習すれば確かに速くなりそうだ。しかし言葉の物質性をないがしろにし、意味だけを優先する読み方は、なんだか味気なさ過ぎるのではないか。 * 僕はあまり料理をしない。肉や野菜を切ったり刻んだりするのが苦手だし、火の加減も味付けもよく分からず、冷凍食品や出来合いのお惣菜を食べないで簡単な炒め物を作っただけで、ああ今日は本当によく頑張ったと、達成感を覚える。料理する習慣を身につけ、ちゃんと継続的に練習すれば、そこそこ腕は上がるだろうが、問題は、そもそも食事に強い執着がないことだ。美味しいものは美味しくいただくのだが、わざわざ時間と手間をかけて料理を作ろうという気にならない。安くて短時間で必要なカロリーが摂れれば、それで十分だと思ってしまう。 料理に対するこの感覚は、おそらく多くの現代人が言葉に対して抱いている感覚と似ているのではないか。言葉を味わったり、「美味しい」言葉を作ったりすることに、限りある時間をあえて費やしたい人は何割いるのだろう。教育現場でも、効率的かつ分かりやすい書き方が教えられている。不要な言葉は省略しよう、曖昧な表現は最小限に、意味がはっきりと伝わるスタイルを目指すべきだ、と。言葉はあくまでコミュニケーションツールだ、という妙な常識が蔓延している。無駄のない、消化しやすい、標準化された言葉がどんどん量産されていく。 グルメ気質の現代社会では、一日三食を栄養補助食品で済ませることを物足りなく感じる人は多いだろうが、同じくらい無味で合理的な言葉なら、許されるばかりか、むしろ賞賛される。