ススキノ事件、トラウマ、逆境的小児体験 香山リカ
アメリカの共和党大統領候補は言うまでもなくトランプ氏だが、私は副大統領候補のJ.D.バンス氏に注目している。『ヒルビリー・エレジー』(光文社)でアメリカのラスト・ベルトと呼ばれる地域に住む低所得労働者層の生活実態を自らの生い立ちに絡めて書いて、世界的なベストセラー作家となったバンス氏は、まさにこの逆境的小児体験のサバイバーだ。両親は離婚、母親は薬物依存で次々に交際相手を変え、子ども時代のバンス氏は学校で必要なものも買ってもらえない。 著作がベストセラーとなった後、バンス氏はアメリカのトーク配信イベント「TED」に参加し、15分ほどのスピーチを行った。そのときの映像は現在も日本語字幕つきでユーチューブに上がっているので、ぜひ多くの人に見てほしい。そこでバンス氏は繰り返し、自分も含めて低所得の家庭で育つ子どもたちは、悲観し将来に絶望し、「自分には選択肢がない」と思い、無力感を抱いている、と語る。その状態を抜け出そうにも、どんな手段があるのか誰も教えてくれないので、奨学金などのソーシャルキャピタルにつながれない。 実際にバンス氏も、地元にいた頃は「弁護士になるにはロースクールに行かなければならない」ということさえ知らなかった。また、軍隊生活を経て、大学に入学を許可されて通知が来るまで、低所得家庭の子弟には学費の減免があることも知らなかったという。 バンス氏は幸い、祖母が奮い立ってくれたおかげで勉強に打ち込める環境を与えられ、その後は軍隊生活で上司らからさまざまな情報、知識を与えられた。その中で自分にも「選択肢がある」と気づいたことが、彼を努力に駆り立てた。そうでなければ、いくら学校で「努力しなさい」と言われても、それは何のためにするものでそうすればどうなるのか、まったくビジョンが見えない中では、努力もできないのは当然だ。 さて、自分のような子どもを救え、とTEDで訴えていたバンス氏は、その後、共和党に見い出されて上院議員となり、ついに副大統領候補となった。共和党の全国大会には彼の母親も出席し、「薬物を10年間やめている」と紹介されてさかんな拍手を浴びていた。まさにバンス氏は人生の絶頂を迎えているわけだが、残念ながら選挙キャンペーンでは「子どもを救え」ではなくて、「移民を排除しろ」と排外主義的なことや民主党のカマラ・ハリス氏らを激しく攻撃するようなことをさかんに話し、すっかりミニ・トランプのようになっている。権力に近づきすっかり変節したのか、それとも本心は変わらないままなのに、トランプのいわゆる鉄砲玉としての役割を演じているだけなのか、よくわからない。 話を元に戻そう。いずれにしても、かつてのバンス氏が言っていた通り、逆境的小児体験を経験し、その後も環境が好転することなく暮らしている人たちにとって大切なのは、絶望やあきらめがその心のデフォルトにならないよう、脱出の手段や選択肢を提示し、それに必要な情報を与えることだろう。「こういう方法もある、こういう社会的サービスもある。こうすれば上の学校に行けて、そのあとこんな仕事につくこともできる」と、とにかく精神論ではなくて具体的な情報をわかりやすく伝え続けることが必要だ。 話をここで元に戻すと、万が一、一時的にススキノ事件の女性が何らかの逆境的な状況に置かれたり、大きなトラウマ体験をしたりしていたとしても、そのあとの境遇はこのバンス氏らとはまったく違うであろう。両親はさまざまな選択肢を与えたはずであるし、何かをやりたいと本人が言えば喜んでそのサポートをしたはずだ。だとすれば、やはり女性が呈した人格の解離や破綻した行動の背後に過去のトラウマを見ようとするのは、間違いかもしれない。