ススキノ事件、トラウマ、逆境的小児体験 香山リカ
ただ、ここまで「トラウマがきっかけとなって発症した解離性同一性障害」という仮定で話をしてきて、自らそれを否定するようだが、もしそうだとしたら説明がつかないこともいくつかある。まず、人格が解離するようなトラウマというのは、たとえば一度、交通事故に巻き込まれたといった一回性のものではなく、反復的、複合的なものであることが多いことだ。医師の父親、専業主婦の母親のもとで大切に育てられたひとり娘である女性が、そのような複合トラウマ状態にあったとは考えにくい。 それからもうひとつ、もし幼児期時代、何らかの理由で複合トラウマを持続的に受けるような状態であったとしても、繰り返しになるが恵まれた環境で育った女性は、さまざまなケアやサポートを受けてきたであろう。また、後から話すが立ち直りに必要なサービスや情報、いわゆるソーシャルキャピタルも得られやすかったと思われる。それなのにここまで強固な解離性同一性障害が発症するであろうか。 子ども時代、複合的なトラウマも含め、家族からの虐待、養育放棄など劣悪な環境で育った人たちのことを「逆境的小児体験」の経験者と呼ぶ。21世紀に入り、この逆境的小児体験を持つ人たちは、その後の人生でうつ病などのメンタル疾患、アルコールや薬物などの依存症、さらには生活習慣病などの身体疾患になりやすいことがさまざまな調査で明らかにされ、この問題に注目が集まっている。 私も診察室でこのような経験をして、おとなになってからさまざまな心理的、身体的問題に悩まされている人たちに多く出会ってきたが、一方でそうならない人もいる。診察室とはまったく別の場で会った作家、経営者、ときには医師などが、「実は子ども時代はけっこう苦労して」とこの経験を語ってくれることがあるのだ。この差は何か、というのが私の大きなテーマのひとつだ。 『トラウマとレジリエンス「乗り越えた人たち」は何をしたのか』(白揚社)という本で、著者で心理学者のジョージ・A・ボナーノは、トラウマの乗り越えに必要なのは「フレキシビリティ・マインドセット」と「フレキシビリティ・シークエンス」だとしてその内容を説明する。前者は「将来はきっとよくなる」「自分には乗り越える能力がある」と思って信じる心のあり方であり、後者はたとえトラウマ的な場面やフラッシュバックが起きているときでもそれに呑み込まれずに「いま起きていることは何か、自分は何をすべきか、この対処でよいのか」と、できごとを文脈で受けとめるスキルである。 本書にはそれがいかに大事か、またいかにして身につけるか、ということが具体的なケースを例にくわしく書かれているのだが、「それでも」とまだ疑問が残る。カウンセラーなどにうまくつながった人は「フレキシビリティ・マインドセットの重要性」などと教えてもらえるだろうが、そうでない人はどうなるのか。本書には、専門機関につながる前から自然に「自分はきっと立ち直れる」と楽観的に思うことができるケースも出てくるのだが、そうできる人とできない人との差は何なのか、という堂々巡りの問いが続く。