ハンガリーの巨匠タル・ベーラが語る旧作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の再上映と福島
映画界を退きながらなぜ語り続けるのか
―あなたは2011年、長編映画で言うべきことはすべて言った、として映画作りから引退しましたが、実際にはさまざまな活動を続けています。人々に何を語りかけようとしているのですか。 ヨーロッパでは2015年に最初の難民危機が起こり、何十万もの人々が押し寄せました。ハンガリーはその入り口の1つになり、政府は彼らをひどいやり方で扱いました。私には受け入れ難いことで、深く心を痛めていました。アムステルダムで展覧会の話があり、この問題について何か作品を生み出す必要があると考えました。人間である難民が、おぞましい扱いを受けているからです。ウィーンでは映像、音楽のライブ演奏、インスタレーションを組み合わせた「ショー」を開催しました。ドイツ語でいう「gesamtkunst」(総合芸術)です。ホームレスの人々の状況がテーマでした。こうした人々を解放したい。それだけです。私も彼らと同じなのです。「ヴァニティ・フェア」誌の表紙に出てくるような人々を取り上げたことはありません。 ―日本では国内外から7人の映像作家を福島に招き、ワークショップを開きました。福島という場所がもつ意味を重要と考えましたか。 もちろんです。福島は世界的に有名な場所になりました。それは地震や津波の被害に遭ったからではありません。原発事故という忌々しい人災が起きたからです。私は福島で何ができるだろうかと考えていました。幸いにも、ワークショップの参加者が関心を抱いたのは、そこで送られている日常生活でした。私たちの目的は、過去について語ることではなく、人々がどのような現実を生きているか、彼らがどんな日々の活動を行っているかを見せることでした。 その結果、私たちは7つの映画を作り上げました。7人の監督が、異なる7つの角度から見つめた作品です。それぞれが自分にとって何が本当に重要かを見つけました。人々が自分の人生をどう生きているか、大事なことはそれに尽きるからです。いかに住んでいる場所が汚され、忌まわしい出来事が起きようとも、人生は続くのですから。それが、私たちが見せようと思ったことです。 ―ワークショップは、原発事故で避難指示の対象となった福島県内の12の市町村で開催されたそうですね。現地を訪れた印象はいかがでしたか。 私たちが目にしたすべては「正常」でした。人々はよく食べました。労働者が通う店で食事しましたが、食べ切れない量の料理が出てくるのです。人々は本当に普通の顔で生活していました。以前にそこで何が起きたのか、信じられないでしょう。もちろん、過去はある種の影として存在します。ただ私たちが見たのは、村の普通の生活でした。 私がもっとも愚かだと思うのは、映画作家がそこへ行って、自分の先入観を押し付けることです。私はそんなことはしません。私は人生/生活を発見することが好きです。そこで物事がどのように起きているのか。 発表された作品の1つは、ある美容師の日常でした。人には美容室に行く必要があるのです。なぜなら髪は日々、伸びていくから。そこで何が起きたかには関係なく、髪が伸びたら美容師が必要になる。 ―福島でワークショップを開催したことは、あなたがサラエボに映画学校を開いたのと同じような考えに基づくのですか。 精神は確実に同じものです。私は常に私で、どの場所に行こうと、何も変わっていない。サラエボでは、3年間にわたって映画の講義を行いました。そのために当然、今回よりも内容は深かった。福島では2週間と短かったので、速さが求められました。ただ、私の方法に違いがあるとは思いません。 サラエボと福島では、もちろん歴史も文化も、人も違います。ただ広く言えば、同じ人間です。どうすれば気持ちが伝わるか、方法を見つけるのは非常に簡単です。私は常にこう言っています。人生を深く学ばなければならない。そうすれば映画の作り方やスタイルが、あなたを見つけてくれるだろうと。 ―海外から数々の映画監督が特別な思いで日本を訪れますが、あなたには彼らと違う動機が感じられますね。 日本は印象深く、興味深い国です。ただ、私がここで映画を撮ることは考えられません。それは愚かなことにもなり得る。日本を撮るのは日本人がベストだと思います。ここにはたくさんの才能ある人々がいます。彼らに仕事をさせてあげないと。 ―『ヴェルクマイスター・ハーモニー』もそうですが、自国のハンガリーで撮ることにこだわりがあったのですね。 よく分かっているからです。もし私が外国で映画を撮るとしたら、見せられるのはテーブルの上で起きていることです。それがハンガリーなら、テーブルの下で何が起きているかを見せることができる。最も重要なのはそこです。一作だけ国外で撮ったことがあります。『倫敦から来た男』(2007)は海辺が舞台でした。海のないハンガリーでは撮れなかったのです。 取材・文:松本卓也