ハンガリーの巨匠タル・ベーラが語る旧作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の再上映と福島
映画は具象である
―『ヴェルクマイスター・ハーモニー』が四半世紀を経て、日本で上映されることにどんな感慨がありますか。 私の初期の作品から45年、『サタンタンゴ』から30年、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』からは25年が経ちました。新しい世代がこれらの映画を発見する…。世界中でどれだけの人が観たのか、私には想像できません。しかし、たくさんいるのだと思う。あらゆる大陸で、そこにスクリーンがある限り。人々が作品を観に映画館へ足を運んでくれるのは、私にとって大きな喜びです。それは疑いがありません。 ―年代的にこの作品は、あなたの代表作と言われる『サタンタンゴ』と『ニーチェの馬』の間に位置しますが、ご自身ではどう位置付けていますか。 その質問は、父親にどの子が好きか訊くようなものです。すべての作品は、私の子です。作品に対する見方は、まさに父と子の関係なのです。どの作品にも等しく愛情を抱いています。これらは私のものであり、私である。こっちがどうで、あっちはこうだと言うことはできません。 ―いま『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を観て、現在の世界で起きている出来事と重なるものを見出すことができます。未来を暗示したかのようだとする見方については、どう思いますか。 アレゴリー(寓話)、メタファー(暗喩)、シンボル(象徴)…、そういうカテゴリー分けが私は好きではありません。それらは文学から来た用語で、映画には存在しないものです。なぜなら映画は具象だから。(ペットボトルの水を手に取って)私はこのボトルについて、水について、映画を撮ることができる。それは具体的です。それから、このボトルを誰かに結びつける必要がある。こうして役割が生まれる。常に具体的です。物―映画と現実世界との関係をどう考えていますか。 私は人生においてまだ、 “本当の現実”を見ていません。現実というのは…(沈黙)。この映画には、3つの主要なキャラクターが登場します。ヴァルシュカは宇宙に関心があり、その視点によって“永遠”と結ばれています。エステルは年老いた音楽家で、クリーンな音や声を求めており、同じく“永遠”とつながっています。もう1つは遠い海からやって来たクジラで、これも永遠の存在です。社会は最終的に、こうした “異物”を受け入れることができない。それが私たちの“本当の現実”への接し方なのです。 ―あなたは自分の映画に人間の尊厳を描いていると言いながら、そこにはどこか悲観的なトーンを感じてしまいます。 私は自分の映画が楽観的だと思っている。この世界をよく見れば、楽観的にならなければならない理由が分かるはずです。この世界は私たちが作った。なのに、どうして悲観的とか楽観的とか言う必要があるのか。私たちはただ、自分たちが生み出したダメージを見ているのです。重要なのは、あなたが映画館を出るとき、何を感じたかです。自分が強くなったと感じるか、弱くなったと感じるか、私が問うのはそこです。理的に実在しているものしか撮ることはできない。だからこういうカテゴリー分けに対しては、『ノー!』と言わなければなりません。