ともにデビューした二人の小説家の「友情」がきりひらいていく、小説の「美しさ」と「楽しさ」
『小説』のタイトルには一悶着あった!?
──そして野﨑さんの『小説』は、四年ぶりの新刊となります。 綾崎:「小説現代」に全編公開されるフォーマットで原稿を受け取ったので、あらすじを知らないまま読み進めました。しかもタイトルが『小説』だから、もはやまどさんが書いた作品だということしかわからない。このタイトル、営業面でいろいろと大変そうな気が……。 野﨑:さあ、どうなんでしょう。(同席している河北編集長を見やる) ──言いたいことは非常にたくさんあるのですが、まどさんがどうしてもこのタイトルでいきたいというので……。(河北編集長) 野﨑:とても嫌そうな顔をしている。 綾崎:『2』のときも挑戦的なタイトルでしたが、今回も攻めていますよね。 野﨑:今回は小説について書いているので、内容通りのタイトルにするのがいちばん良いだろうと。武者小路実篤の『友情』だって、友情の話じゃないですか。 綾崎:それもそうなのか……? でも読み終わってみると、確かに『小説』というタイトルが最もふさわしい内容だなと感じました。「小説」とはいったいなんなのか、考えながら書いていったんですか? 野﨑:ぼんやり結論を思い浮かべながら、書いていくなかで整えていきました。理論はテイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』を参考にしています。宇宙について持論が述べられていて、それに則って小説を考えていくと新たな発見があって面白いです。 綾崎:宇宙もそうですが、まどさんの小説は想像力を飛躍させながらも地に足がついていて、読者を決して置いてけぼりにしないので、信頼ができます。一見すると脈絡のなさそうな要素も回収されているし、読み終えて物足りなさもない。今回も最初から最後まで「野﨑まど」を楽しめました。最近こうやって、純粋に読むことができていなかったな、という感慨もあります。
読むことの楽しさを思い出させてくれる『小説』
──本作は「読む」行為にも焦点があてられていました。読者としても沁み入るところがあったのでしょうか。 綾崎:僕はここのところ、他の誰かが創ったフィクションを純粋に楽しめなくなっていました。どんなコンテンツに触れても、演出の意図を気にしたり、自分だったらどう書くか考えたり、余計なことに囚われてしまう。だから主人公の内海が心の底から読むのを楽しんでいて、羨ましくなりました。外崎が初めて読んだ小説が司馬遼太郎だったのも、贅沢なスタートをしているなあと。 野﨑:作家を長く続けていると忘れてしまいがちですが、作者と読者の人数比は圧倒的に読者のほうが大きく、作家のほうが特殊な立ち位置だと思います。マジョリティは常に読者の側にある。だからこそ、「書く」ではなく「読む」行為について書いていきたい気持ちがありました。 綾崎:読むことって楽しいんですよね。純粋に読書を楽しみたい気持ちともう叶わない諦めの気持ちが同居しているなか、ただ純粋に本を読んでいたころを思い出せました。 野﨑:ほかにも読んでいただいたひとから、賛歌のようだという感想をもらったことがあります。僕としては賛歌のつもりではなく、世界をありのまま書き写したいと考えていました。それがもし賛歌として読めたのであれば、この世界は素晴らしいことの証明なのだと思います。読者のみなさんが生きている世界は実は素晴らしいものだと、受け取ってくださればうれしいです。 ──『小説』を読み終えたいま、「書く」側として、小説を書くことに対する心境の変化はありますか。 綾崎:昔は面白い小説を書くことに意識を集中していたけれど、いまはどうアプローチをすればより多くのひとに本を読んでもらえるか、考えるようになりました。そうしたなかで、担当してくださっている編集者さんとトラブルが起きたこともなく、十五年間書き続けてこられたのは幸せなことだと改めて実感しました。 野﨑:本は作者ひとりでつくるものではなく、編集者や校閲の方、市場にかかわるあらゆる方がいて成立するものなので、理想通りに進まないところはでてきます。だから、綾崎さんの恋愛小説みたいに柔らかくてすぐ崩れてしまいそうな美しい作品が、本のかたちになるまで保たれたまま書店に並んで、誰かの手元に届く。これはすごくいいことだと思います。綾崎さんの作品を読んでそれを実感しました。 綾崎:ありがとうございます。まどさんはエンターテイメントを創るのが大好きで、エンターテイメントに最もふさわしい媒体を探している方だと感じていました。だから、小説を書くこと自体に強いこだわりがある印象はなかった。でも、今回の『小説』を読んで、まどさんは小説をとても愛しているのだと伝わってきてうれしかったです。きっとこれからも小説を書いてくれるはずだと信じています!