国宝級の副葬品を次々と発見! 奈良「富雄丸山古墳」は誰の墓なのか?
これは、歴史の教科書が変わるくらいのことなのか? 「歴史の教科書というと大げさですが、少なくとも国内の金属器生産の技術史を完全に一新するような発見です。蛇行剣としては日本で一番古く、儀式用の剣としても最長の逸品ですから」 では、「だ龍文盾形銅鏡」はどうだろう。前出の柴原氏が語る。 「日本で見つかっている古墳時代の鏡は、すべて円形なんです。しかし、盾の形をした鏡が初めて出てきました。さらに、一般的な鏡は文様がひとつですが、盾形銅鏡は上下にふたつ並んでいます。 極めつきはその大きさです。盾形銅鏡は長さ63㎝で幅32㎝。鏡としては日本一の大きさです。これだけ大きくて、複雑な文様の鏡を作るためには非常に高い技術が必要です」 福永氏も驚きを隠せない。 「だ龍文盾形銅鏡は『こんなものがあったのか!?』と考古学者も想像していなかった空前絶後の発見です。私も、なぜ盾の形をした鏡を作ったのかを当時の人に聞きたいくらいです。 ただ、推測するならば、富雄丸山古墳の少し後に造られた古墳で、革に漆を塗って作った同じような形の盾が棺の上に置かれた例があります。これは被葬者に邪悪なものが取りつかないように盾で保護するという意味だと思われています。 すると、だ龍文盾形銅鏡も蛇行剣と同じように埋葬されている人に邪悪なものが取りつかないように特別に作られた鏡ではないでしょうか。実は、鏡自体にも邪悪なものを遠ざけるという機能があるので、その鏡を武具として防御の機能のある盾形にすることで、邪悪なものを遠ざける力を倍増させたのではないかという推定が成り立ちます。 また、この鏡を作るのも技術的に非常に難しいんです。なぜかというと、この盾形銅鏡の厚さは5㎜くらいしかありません。非常に薄い。これだけ薄い青銅器を穴が開かないように作るには高度な技術が必要です。しかも、厚みがずっと同じなんです」
■卑弥呼の鏡をなぜ持っているのか? そして今年、埋葬されていた木棺の中から、3枚の青銅鏡が発見された。その中の1枚が〝卑弥呼の鏡〟といわれる三角縁神獣鏡かもしれないというのだ。 三角縁神獣鏡とは何か。なぜ、卑弥呼の鏡といわれているのか。柴原氏が説明する。 「三角縁神獣鏡は、中国の魏という国で作られた円形の鏡です。縁の断面が三角形で少し高くなっていて、中央の突起物の周囲に神像と獣像が描かれていることから、三角縁神獣鏡と呼ばれています。 魏の歴史書である『魏志倭人伝』に『239年に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送ってきた。240年に魏の皇帝は銅鏡100枚を渡した』と書かれているため、三角縁神獣鏡がその銅鏡ではないかといわれているんです」 福永氏が続ける。 「ただ、三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡は、日本でこれまでに600枚ほど発見されています。そして、そのうちの約450枚が中国製で、約150枚が日本製だとみる説が有力です。 卑弥呼が中国に使者を送って持ち帰ったものが一番古いタイプのもので、その後も邪馬台国は何度か魏や西晋に使者を送っているので、そのたびに三角縁神獣鏡をもらったため450枚くらいになったと考えられています。 青銅はスズと銅を混ぜて作られるのですが、スズ分が多いか少ないかで鏡の制作時期や制作地が大まかに判別できます。古い中国鏡はスズ分が多く表面が黒っぽくなり、日本製は銅が多く青サビが出やすくなります。 今回の鏡は黒っぽい色をしていますから、三角縁神獣鏡の中でも古いタイプの鏡だと推定できます。ですから、卑弥呼が生きていた時代にもらった鏡の可能性があります。 ただ、それは3世紀の中頃のことです。富雄丸山古墳は4世紀の後半に造られましたから、100年以上前の話なんです。では、なぜ100年以上前の鏡が富雄丸山古墳の被葬者のもとにあったのか。 これには、ふたつの考え方があります。ひとつは、富雄丸山古墳の被葬者は有力者の家系で、ご先祖さまが卑弥呼から鏡をもらったけれども、すぐには埋めないで100年以上後の子孫の代になって埋めた。 もうひとつは、3世紀中頃に誕生したヤマト王権の中枢の人間が卑弥呼の鏡を持っていて、100年くらいの間に重要人物たちにお宝として与えたというものです」 いずれにしろ、富雄丸山古墳に埋葬された人物は、4世紀後半の重要人物であることは間違いない。