山口瞳、吉行淳之介、筒井康隆…休刊を発表「夕刊フジ」が文芸史に残した名物連載「100回エッセイ」を振り返る
名物連載を支えた挿画
ここからは、「夕刊フジ」編集局長をつとめた故・馬見塚達雄氏(1934~2015)による著書『夕刊フジの挑戦 本音ジャーナリズムの誕生』(阪急コミュニケーションズ刊、2004年)を参考にしながら、回想していこう。 「夕刊フジ」は、当初からエッセイに力を入れていた。創刊当初は、作曲家・高木東六の艶っぽいエッセイ「とうろく らぷそでぃ」が人気だった。ひきつづき川上宗薫「新銀座八丁」、梶山季之「あたりちらす」などが続いた。 「この3冊とも、単行本化は、サンケイ新聞出版です。ところが、そのあとで決定的な名連載が誕生し、新潮社で単行本化されたことで、一躍、この欄が注目を浴びることになりました」 それが、名エッセイとして知られる、山口瞳の「酒呑みの自己弁護」だった(連載初出1972年)。当時、山口瞳は、週刊新潮の名物連載「男性自身」が大人気だった。そこへ、100回とはいえ、毎日連載を入れるのは無理だと、誰もが思った。ところが、〈親しくしていた梶山が書いたことで、『梶さんが書いたのなら』とOKしてくれた〉のだった(「夕刊フジの挑戦」より)。 実はこのエッセイ、連載時のタイトルは「飲酒者の自己弁護」で、「飲酒者」に「さけのみ」とルビがふられていた。のちの単行本の「あとがき」で、山口瞳は、こう書いている。 〈連載をひきうけて、数日後に、タイトルを「酒の害について」と決め、担当の人には諒承してもらった。チェホフの「煙草の害について」の真似であるが、そういうタイトルで、酒の楽しさだけを書くつもりであった。〉 ところが広告部から、このタイトルでは、酒関係のスポンサーに差しさわりがあるので、変えてくれといってきた。いうまでもなく、山口瞳は壽屋(のちのサントリー)出身である。そこで山口自らサントリー宣伝課長に会い、承諾を得る。だが今度は、大阪の広告部からクレームが入った。朝から学芸部長が山口宅にやってきて、昼までに別のタイトルを考えてくれといってくる。そこで窮して「酒の害について」→「飲酒者〔さけのみ〕の自己弁護」になり、単行本で「酒呑みの自己弁護」になったのだった。 さらに「あとがき」の最後に、こんな一文がある。 〈挿画の山藤章二さんには、とても助けられ(私のハゲ頭を強調するのは悪い癖だが)新聞を見るのが楽しみだった。〉 実は、山口が連載を引き受けるにあたっての条件のひとつが、山藤章二の挿画だった(2024年9月に87歳で逝去)。文藝春秋漫画賞を受賞したばかりの新進気鋭のイラストレーターだったが、先述の梶山季之「あたりちらす」に起用されていた。これが単なる添え物イラストではなく、文章とセットになることで、全体が二倍にも三倍にも面白くなる、独特な挿画だった。「夕刊フジ」編集部も山口瞳も、山藤章二の才能を早くから見抜いていたのである。 以後、山藤章二は、“100回エッセイ”で多くの挿画を担当し、「夕刊フジ」の“中面の顔”ともいうべき存在になるのである。実際、多くの作家が賛辞をおくっている。 〈イラストを見るのも毎日たのしみで、それが仕事をつづける励みにもなった。(略)100回愉しませてもらったことについて、私は「イラストレーターの男」に感謝している。〉(吉行淳之介「贋食物誌」新潮文庫~あとがき/連載初出1973年/連載時タイトルは「すすめすすめ勝手にすすめ」) 〈文章を書き終えた私は、次には、山藤さんの絵と文の世界を愉しむ側に回ることができ、その愉しみがまた、次のロー・アングルを生んでいくというあんばいだ。(略)それにしても、百二回デスマッチ的試合の相手をしてくれた山藤章二さんの、こちらが出すワザにたいするプロレス的受け身のしたたかさにはやはり舌を巻いた。とにかく山藤さん、いろいろとご苦労さまでございました。試合、楽しかったです!〉(村松友視「私、小市民の味方です。」新潮文庫~最終回/1983年連載初出) この村松友視は、単行本化の際、著者名を、山藤章二との「共著」にしたほどだ。 こうして次第に、出版社の文芸編集者たちは「次の“100回エッセイ”は誰か」「ぜひ、うちの作家を登場させたい」と、虎視眈々、「夕刊フジ」に目を光らせるようになるのである。