感染症の文明史 :【第2部】インフルの脅威 3章 鳥インフルウイルス:(4)ヒトに感染する豚インフルが出現
米国の苦い経験
WHOには、「幻のスペイン風邪騒動」という苦い経験がある。一部に根強く存在するWHOや研究者に対する不信感が生まれた原因の1つだ。1976年2月に米ニュージャージー州のディクス基地で、19歳の二等兵が訓練中に体調不良を訴え翌日亡くなり、他にも基地内で12人が発症したものの他に死者は出なかった。この原因がスペイン風邪と同じ「H1N1」と診断されたことから、スペイン風邪の亡霊として世界的な大騒動を引き起こした。 フォード米大統領(当時)はWHOなどの専門家の警告を受けて、保健当局に全国民を対象にした予防接種の実施を命じた。1億3500万ドルという巨費を投じた史上最大のワクチン作戦だった。ところが、接種開始後数週間もたたないうちに、「接種直後にギラン・バレー症候群(GBS)を発症した」という苦情が殺到した。CDCによると、約500人が発症して、30人以上が死亡した。重症の場合、この病気は中枢神経の障害から呼吸困難を起こして死に至ることもある。ワクチン接種の副作用としてGBSが増えることは分かっているが、どうしてそうなるのかまだ不明な点が多い。 最終的に約4000万人が予防接種を受けたが、インフルの流行はなかった。死者は不運な二等兵ひとりだけだった。調査の結果、スペイン風邪よりはるかに致死性の低いウイルスと判明した。ワクチン接種の反対運動が広がり、2カ月足らずでプログラムは中止に追い込まれた。反対派は、「今年行われる大統領選挙を意識して、大統領は票田である製薬会社の言いなりになった」と批判した。結果的には大統領は選挙に敗れた。この事件が起きてから、米国でワクチンへの不信感が広がった。 新型コロナでワクチンの反対運動が全国的に展開されたのは、この事件があったからだと言われている。最近の調査では米国民の4人に1人はワクチン接種を拒否している。日本では1割程度とみられる。
パンデミックが発生する確率は今後3倍に
幻のスペイン風邪騒動は、インフルウイルスが一筋縄ではいかない存在であることを物語っている。今後、インフルウイルスとヒトとの関係はどうなるのだろう。一部の疫学者は感染力が低い形で今後とも流行が続いていくと予測、また他の研究者は新たなA型インフルウイルスに起因するパンデミックが近いうちに発生すると断言する。しかし、上空を見上げれば、鳥インフルウイルスを抱えた渡り鳥が飛んでいる。身の回りを見わたせば、ペットや家畜やネズミにまでにまで宿主が広がっている。これだけウイルスの「隠れ家」が広がってしまえば、根絶が困難なのは容易に分かる。 米デューク大学のマイケル・ペンが過去400年間の感染症の発生頻度を調べたところ、新型コロナと同程度のパンデミックが発生する確率は、今後数10年間で3倍に増加するという。次章で述べるように、人口増加、食糧生産システムの変化、環境悪化、病気を媒介する動物との接触頻度の増加などパンデミック発生の危険因子は身辺に満ち、しかも将来的には増えていくことが予測される。 「環境変化が病気の出現にどのような影響を与えるかを理解することが重要だ」とペンは指摘する。近年発生した動物由来感染症のほとんどは、ヒトによる自然破壊が原因であることを示唆する研究結果が数多くある。今後、ますますヒトの活動が生態系に重圧を掛け続けることを考えると、近いうちにパンデミックが襲来する事態は避けられないだろう。ヒトはこれからもパンデミックと戦わなければならない。対等に戦うにはインフルに対する効果的なワクチンが必須だ。世界各国でその研究・開発が進められているが、まだ希望が見えてこない。 (文中敬称略)
【Profile】
石 弘之 環境史・感染症史研究者。朝日新聞社・編集委員を経て、国連環境計画上級顧問、東京大学・北海道大学大学院教授、北京大学大学院招聘教授、ザンビア特命全権大使などを歴任。国連ボーマ賞、国連グローバル500賞、毎日出版文化賞などを受賞。主な著書に『名作の中の地球環境史』(岩波書店、2011年)、『環境再興史』(KADOKAWA、2019年)、『噴火と寒冷化の災害史』(同、2022年)など。『感染症の世界史』(同、2018年)はベストセラーになった。