だから「懲役4年の実刑判決」でもトップ当選できた…田中角栄が落選した野党議員に続けた"絶妙な気配り"
■カネは「もらって頂く」という姿勢で渡す 田中角栄の抜群な気配りは、カネに関してもみることができる。選挙の季節となると、資金が足らずで田中に「SOS」を訴えてくる議員が多かった。時に、田中は秘書にそうした議員が選挙活動中の地元にナニガシかを届けさせたものだ。 その際に田中が秘書に申し渡したのが、次の言葉であった。 「いいか。お前は絶対に『これをやるんだ』という態度をみせてはならん。あくまで『もらって頂く』と、姿勢を低くして渡せ。世の中、人はカネの世話になることが何よりつらい。相手の気持ちを汲んでやれ。そこが分かってこそ一人前」 合わせて、渡したカネのことは一切、口外することがなかった。ために、田中から資金援助を受けた議員は口を揃えたように言ったものだ。 「人に知られてみじめな思いをすることがなかった。角さんからのカネは心の負担がないのだ」 だから、田中のもとには人が集まった。「カネが上手になれて、初めて一人前」との俚諺(りげん)もあることを知りたい。 ■本人には黙って毎月20万円を送り続けた また、カネに関してはこんな話もある。戦後間もなくから田中角栄が旧〈新潟3区〉の選挙でシノギを削ったのが、社会党の三宅正一代議士(のちに衆院副議長)であった。 田中と三宅は保守・革新と立場は違っても、ともに新潟の豪雪苦や開発の遅れなどからの脱却に、お互いの熱い血をたぎらせてきたものだ。言わば同じ郷土愛を持った「戦友」でもあり、互いにどこかで心を許し合い、畏敬の念も抱いていた。 その三宅は大平正芳首相が選挙運動さなかに死去した昭和55年6月の衆参ダブル選挙で落選、それを機に政界を引退した。田中の凄さが、ここで出た。落選議員は家の子郎党(ころうとう)の面倒も見なくてはならずで、生活は厳しいものである。これを見た田中は、なんと三宅のもとに毎月20万円を送り続けたというのである。しかし、絶妙の気配りはここからである。 そのあたりの事情を知る人物の証言がある。「田中は三宅本人には送らず、近い人にこう厳命したうえで送った。『このカネが私から出ているとは、口が腐っても本人に言ってはならない』と。三宅さんのプライドを慮ったということだった。結局、このことを三宅さんは亡くなるまで知らないでいた。しかし、人の口に戸は立てられずでやがてこの話が漏れ、『田中はなかなかの男だ』という声が三宅さんを中心とする社会党支持者の間に伝わっていったのです」 この気配りは、田中が選挙で一番苦しかったと言われたロッキード選挙で“開花”することとなった。田中はこの選挙で落選もあり得るとのメディア報道を一蹴、じつに前代未聞の22万票を獲得したということだった。 「社会党支持者の票がかなり回った」(新潟の地元記者)との見方があったのである。カネは、「両刃の剣」である。上手に使えば自分の“栄養”になるが、ヘタな使い方をすれば人品が卑しくなって評判を落とすのだということを知っておきたい。 ---------- 小林 吉弥(こばやし・きちや) 政治評論家 1941年、東京都に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。的確な政局・選挙情勢分析、歴代実力政治家を叩き合いにしたリーダーシップ論には定評がある。執筆、講演、テレビ出演などで活動する。著書には、『田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ』(ビジネス社)、『田中角栄の経営術教科書』(主婦の友社)、『アホな総理、スゴい総理』(講談社+α文庫)、『宰相と怪妻・猛妻・女傑の戦後史』(だいわ文庫)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『新 田中角栄名語録』(プレジデント社)などがある。 ----------
政治評論家 小林 吉弥