本格焼酎から霜降り肉まで!“麹”の力で日本の食文化を支える老舗メーカーの挑戦
河内菌で家畜飼料の事業に進出した山元。養豚王国・鹿児島の約2割の事業者が使うようになったが、変わるのは肉質だけではないと言う。 「腸内環境が良くなって未消化物が少ないから腐敗臭が出ないんです」(山元) だから養豚場は臭くない。しかも豚の成長が10日ほど早くなり、その分の餌代も節約できると言う。宮崎・都城市の「宮崎畜産グループ」社長・近間伸一さんは「年間900万円ぐらいの効果があって助かります」と言う。 さらに、山元はいろいろなものに河内菌をふりかけ麹を作っては、その特性を探っている。例えば「河内菌に豚骨を与えてやれば、豚骨を分解する酵素を出す。出汁を取るなら河内菌を生やすのが一番です」(山元)。 河内菌がタンパク質を分解しアミノ酸に変えてくれる。これで出汁を取れば、旨みたっぷりで臭みのない豚骨ラーメンができるという。
また山元は茶葉にも河内菌をふりかけた。通常、カロリーが低い茶葉で麹を作るのは難しいのだが、「数十回やると生えてくるものがある」と言う。この茶麹も新商品を開発中だ。 「祖父は死ぬ前に『河内菌の力はこんなものではない』と言っていたそうです。『俺が河内菌の機能性を探してやる』と思い続けていました」(山元)
なぜ父は息子を裏切った?~テーマパークを作って大逆転
今年3月、小林製薬の紅麹の成分が入ったサプリを摂取した人が腎疾患などの健康被害を起こしていたことが確認された。麹そのもののイメージダウンになってしまうと危機感を強めた山元はセミナーを開き、麹づくりの安全性を訴えている。 「出来上がった麹は雑菌がないことをチェックして出荷している。それぐらいシビアにやっていることが安全性の担保なんです」(山元) 山元は1950年の生まれ。父親で2代目の正明は娘婿だった。幼い頃から家業を継ぐと決めていたといい、東京大学農学部を卒業すると27歳で河内源一郎商店で働き出す。 「自分の価値観の中で父親の仕事が一番だと思っていた。すごく尊敬していて、いつか父親を抜いてやると」(山元) 父親は職人仕事だった麹作りの機械化に挑み、10年がかりで自動的に麹が作れる機械を完成させた。焼酎の品質も良くなると、九州の蔵元の8割が購入する大ヒットとなり、父親もまた時代の寵児となった。 「それがなかったら焼酎の近代化はない。『焼酎業界の帝王』と言われていました」(山元) 歯車が狂い出すのは1985年のこと。父親が自分でも焼酎を作ってみたいと「錦灘酒造」というメーカーを買い取ったのだ。麹屋が麹にこだわって作った焼酎「てんからもん」は予想以上に売れた。ところがある日、状況が一変する。 「大量の在庫が全部返品された。すごい量でした」(山元) 何があったのか、山元は酒屋に話を聞いて回った。扱ってくれなくなったのは、大手の焼酎メーカーが裏で酒屋や問屋に圧力をかけていたからだった。 その時、父親は信じられない対応に出る。 「僕が悪者になっていたんです。『あいつがやったこと』と。息子をダシにして会社を守ったということでしょう」(山元) 正明は錦灘酒造の社長を息子の山元に押し付け「あいつが勝手にやったこと」と幕引きを図ったのだ。さらに責任を取らせるように、河内源一郎商店もクビにした。 「僕は父親のことが大好きでした。小さい頃から父親っ子だった。だから裏切られたのはすごくショックでした」(山元) 焼酎を作っても売る場所がない。山元は途方にくれ、畑の中に車を止めて呆然とした時間を過ごした。そんな時、目に入ったのが飛行機。「観光客に売ればいい」と閃いた。 「観光工場だったら従来の流通を荒らさないから、食べていけるかもしれないと夢想しました」(山元) 山元は一世一代の勝負に出る。焼酎工場と観光施設の合体というアイデアで事業計画を作成。金策に駆けずり回り、銀行から8億円を受けた。1990年、テーマパークのような観光工場をオープン。そこに「焼酎の歴史」を味わえる商品を作り、並べた。 しかし、「1日100万円は売らなければいけないのに、最初の月の売り上げが150万円。あと数か月でお金が全部なくなる」(山元)。なんとか客を呼ぼうと、山元は長年やってきた古流剣術・野太刀自顕流の道着を着て全国の旅行会社を営業して回った。 「1カ月間営業で回って鹿児島に帰ってきたら、観光バスが並んでいたんです。17台も並んでいた。『やった』と涙が出ました」(山元) 従業員もまた野太刀自顕流の道着を着込み、客の出迎えからおいしさのアピールまでを行った。するとこれが評判を呼び、観光工場は年間45万人が押し寄せる人気スポットに。6年後には銀行からの借金も完済した。 父親の死をきっかけに河内商店を継いだ山元。本格焼酎に欠かせない河内菌は親子3代、未来へとつながった。