「今江監督はよくやりましたよ。なのに三木谷オーナーは…」初代監督・田尾安志が嘆く20年間変わらない「楽天球団の体質」
プロ野球選手会労組
ちょうど20年前の1994年11月8日、この年の球界再編騒動を経て、オリックスと近鉄の選手を合併球団「オリックス」と新規球団「楽天」に振り分ける「分配ドラフト」が行われた。これにより40選手の楽天入団が決定したが、当時、楽天の戦力が著しく見劣りすることは明らかで、“火中の栗”を拾う形となった初代監督の田尾安志は苦しい戦いを強いられることになった。 【写真】かつては蜜月だった田尾監督と楽天・三木谷オーナー
中日ファンのイチロー少年も「田尾を戻せ」
1994年の球界再編騒動を経て、楽天球団の初代監督も務めた田尾安志は、プロ野球選手が球団を前にして闘う権利がなかった時代に犠牲になったある意味で象徴的な選手であった。 1975年に同志社大学からドラフト1位で中日に入団すると、1年目に打率2割7分7厘で新人王を獲得。その後も順調に打棒を振るい続け、フアンサービスにも熱心な気さくな性格からチームの顔として老若男女に愛された。 ところが、3年連続でセ・リーグ最多安打を放ち、生え抜きスターとして絶頂の最中にいた1985年。キャンプインを直前に控えた1月24日に突然、西武へのトレードを告げられたのである。 背番号「2」の選手会長は毎年、球団側にプレーをする上での環境面の改善を要求しており、そのことで当時の代表に疎まれていた。田尾は名古屋を終の棲家と考え、新居を星が丘に建てたばかりであった。何の前触れも無い、懲罰人事のようないきなりの移籍発表であった。 一方的な通達をその場で受け入れた本人以上に名古屋のフアンは納得ができず、「トレード反対」の署名運動が巻き起こった。 まだ小学生であった中日ファンのイチローが家庭科の課題で作ったエプロンに「田尾を戻せ」という刺繍を入れたことも知られた逸話である。それでも選手に可能な抵抗は、現役を引退するという事以外にはなかった時代である。 しかし、冒頭に記した通り、田尾がトレードに出された年の11月に選手会は労働組合として都労委に認定された。そして19年経った今ではオーナー側が描いていた絵図さえ覆すほどの力を持つに至った。 ならば、それを成し遂げた古田敦也らの現役選手たちのために自分がすべきことは、そのバトンを再び受け取り、例え戦力がいかに劣っていようともオファーがあったこの新チームの監督になることではないのか。 2004年10月13日に行われた就任記者会見で田尾はこう発言している。 「選手がプレーしやすい環境をつくるなど魅力ある球団にして、東北の野球ファンの熱意に応えたい」「他球団の選手が来たいという気持ちになる球団にしたい」(朝日新聞) あくまでもプレイヤーズファーストのマインドから、環境を整えて選手が来たくなる球団を作るという言葉をまず紡いだ。11月8日に分配トレードが行われると、それに加えて他球団を自由契約になった選手や無償トレードを組み入れて突貫工事のように編成を整えた。 とにかく年内に一度、練習をしようと、大阪の近鉄の本拠地であった藤井寺球場で11月13日に初練習を行った。ユニフォームデザインも決まってなかったので、選手は真っ白のユニフォームでの秋季キャンプ参加となり、まるで高校野球のようだと言われた。 就任が決まって、2週間以内でコーチ陣も組閣して発表しなければならないというあわただしさだったが、田尾自身は選手会の導きで誕生したともいえる50年ぶりの新球団の船出にやりがいも感じていた。 楽天1年目の田尾の方針は東北にプロ野球チームを根付かせることを優先させたものであった。オーナーの三木谷には始動と同時にこう伝えた。 「球界に新規参入して頂いたことに感謝します。ただチームを自分の持ち物とは思わないで下さい。プロ野球の球団は公共財です。我々はファンのものであるんです」 これに三木谷は「分かりました」と応えたという。