41歳の中村俊輔がボランチでJ2デビュー「駒の一人として」
不思議な縁を感じずにはいられなかった。まだ20世紀だった1997年4月16日。横浜マリノスの高卒ルーキーだった中村俊輔は後半10分からホームの三ツ沢球技場のピッチに立ち、まだJ2やJ3のカテゴリーに分かれる前の、17チーム体制で争われていたJリーグでデビューを果たした。 そして、22年あまりの時間がたった2019年7月31日。今夏にジュビロ磐田からJ2の横浜FCへ完全移籍で加入した俊輔は、レノファ山口との明治安田生命J2リーグ第25節の後半15分から、ネーミングライツでニッパツ三ツ沢球技場と名称が変わったホームのピッチに登場。新天地での第一歩を刻むとともに、23年目を迎えたプロ人生で初めて2部リーグでプレーした。 3分間のアディショナルタイムを含めて、ボランチとしてプレーした時間は30分ちょっと。前半の段階で2-1と逆転していた横浜FCは、俊輔が投入された後にも2点を追加。クラブタイ記録となる破竹の6連勝をマークし、順位をJ1参入プレーオフ圏内の6位へ上昇させた結果が、6月に41歳になった稀代のレフティーの表情を綻ばせた。 「一番は勝てたのがよかった。自分が入ってから(味方の)ゴールも決まったし、やっぱり連勝していたので止めたくなかった。単純に、三ツ沢で勝ててよかった」 ガンバ大阪と対峙した22年前は、大量4ゴールを奪われた1分後に投入されるも、一矢を報いることすらかなわなかった。カテゴリーをトップからJ2へ、クラブを同じ横浜をホームタウンとするマリノスから横浜FCへ、背番号を「25」から「46」に変えた今回の初陣は、勝ちどきをあげる至福の喜びを共有できた。それだけで十分に満足できた。 心も体も完全に燃え尽きたい、という思いを抱いて今シーズンを迎えた。ジュビロで2年目となった昨シーズンは右足首に巣食う古傷をかばうあまりに逆の左足を痛め、前半戦だけで2度の戦線離脱を強いられた。ワールドカップ・ロシア大会でJ1が中断していた6月には、故障禍の原因となっていた右足首の不安を取り除くために思い切ってメスを入れた。