米国人弁護士が交代石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#49
弁護人が飛躍的、非科学的、非常識な判決と評した、石垣島事件の判決。横浜裁判で言い渡された死刑判決の三分の一を占める異常な結果は、どうして導かれたのか。判決後、日本人の弁護人たちが連名で書いた、嘆願書の下書きが見つかったー。 【写真で見る】石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情 〈写真:石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵)〉
弁護人4人連名の「嘆願書」
国立公文書館に収蔵されている石垣島事件のファイル。弁護士の手元に残っていた資料をそのまま綴じ込んだようなファイルには、検事側から証拠として出された書証のコピーや、弁護側から裁判に提出された書類の下書きとみられるもの、また、メモのようなものも入っている。 その中に海軍の用紙に書かれた「嘆願書」があった。法務省から移管された戦犯関係の文書で、公文書館で閲覧できるのはほとんどがコピーだ。この文書もそうで、修正が入っているのと、日付がないので、下書きだと思われる。1948年3月16日の判決後、湯川忠一、村田保定、金井重夫、尾畑義純、4人の日本人弁護人の名前が書かれている。宛名は、「連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下」だ。 <嘆願書>(※分かりやすく平仮名にした部分があり) 私ども4人は、1948年3月16日横浜の軍事法廷において、判決を言い渡された第258号事件(いわゆる石垣島事件)の弁護人であります。 私どもは、同年11月26日付けを以て、閣下に対し第八軍法務部を経由して嘆願書を提出し、この事件の弁護が、アメリカ人顧問弁護人の更迭により、極めて不満足のうちに終了したことを理由として、再審につき御考慮下さるように御願い致しました。 しかしその嘆願書中には事実を十分に記載することを省略致しましたので、ここに改めて事実を具体的に記載し、御参考に供したいと存じます。 〈写真:石垣島事件に関するファイル(国立公文書館)〉
熱意を持っていた主任顧問弁護人
<嘆願書> この事件は初め、ジョセフ・ジー・ワイマン氏が主任顧問弁護人として選ばれ、1947年11月26日から裁判が始まりました。 同氏は約一ヶ月間の調査で、事件の真相、被告人の主張及び反証方法等につき十分、理解研究し、しかもこの事件につき、非常な熱意を持っており、被告人ら及び私どもから十分な信頼を受けて弁護に当たりました。ところが1948年1月8日休廷中に、被告人ら及び私どもの面前において、彼とイー・ダブルユー・ガスリー検事とが、かねてから懸案になっていた、被告人らの首に氏名標を掛けるという件につき言い争い、互に腕力を行使するという事件が起こりました。これが原因であったと思いますが、ジョセフ・ジー・ワイマン氏はその意志に反し、又、被告人ら及び私どもの意志に反し、当時の弁護団長バーロン・ケー・フィリップス少佐によりこの事件の担当を解かれ、同月12日より同人に代ってハロルド・キンゼル少佐が法廷に姿を現わすに至りました。 戦犯裁判に熱意を持ち、被告人たちからも信頼を得ていたワイマン氏が、ガスリー検事との取っ組み合いの喧嘩で、交代させられてしまうという悲劇が、裁判が佳境に入ってくる時期に起きていた。 〈写真:弁護人らの嘆願書(国立公文書館所蔵)〉