評伝 賀川浩さん、マラドーナ5人抜きを記者席から撮影 86年メキシコW杯の伝説目撃
世界最年長のサッカージャーナリストとして、2015年に国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した賀川浩(かがわ・ひろし)さんが5日、老衰のため神戸市の病院で死去した。99歳。 甲子園球場が誕生した1924(大正13)年に生まれた賀川さんは神戸一中(現神戸高)でサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪SCで天皇杯準優勝を経験した名選手でもあった。 第2次世界大戦中は軍隊に召集され、志願して航空隊へ。戦闘機に乗ったが、特攻直前に終戦を迎えた。引き揚げ後、52年に産経新聞社(大阪)に入社。得意分野のサッカーをはじめとしてスポーツを取材。64年東京五輪では、サンスポ1面の閉会式の原稿を書いた。また同五輪前に、東京以外でも国際試合を開催して日本サッカーの発展につなげたいと提案。「大阪トーナメント」と呼ばれる5~8位決定戦の関西開催につなげた。 49歳でサンスポ編集局次長だった74年、西ドイツで開催されたW杯を初めて取材。会社を1カ月空ける代わりに自身のコラムにスポーツメーカーの広告を付け、取材費は自費、出張中に事件事故に巻き込まれたときは労災扱いにしてもらうことを会社にお願いして実現した。86年メキシコ大会の準々決勝・アルゼンチン-イングランドでは、マラドーナがハーフウエーライン付近でボールを持ったとき「何かが起こりそうだ」と直感してカメラを持ち、歴史に残る5人抜きドリブルを記者席から撮影した。 定年退職後、フリーに。専門誌に世界の国々の風情を絡ませた紀行風の連載を長期掲載した。クライフ(オランダ)ら有名選手へのインタビューにも成功。活動の幅を広げた。功績が認められ、2010年には日本サッカー殿堂入りした。 W杯は14年ブラジル大会まで計10大会を取材。この功績が評価され、90歳の15年に日本人として初めて国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を受賞した。19年3月には神戸で日本-ボリビアを取材。94歳の日本代表取材は最年長記録と話題になり、森保一監督から花束を贈られた。98歳まで雑誌にコラムを寄稿した。 育成も手がけ、日本初のサッカースクールとなる神戸少年SSなどの創設に携わった。日本協会に対し、現役を終えてブラジルへ帰国する考えだったセルジオ越後氏をサッカースクールのコーチに推薦し、全国展開していくきっかけを作ったのも、賀川氏だった。