「お金を稼ぐ人間が偉い」そんな偏見が捨てられなかった私。仕事を離れ異国での子育てを選択した夫に思うこと【小島慶子】
エッセイスト・小島慶子さんが夫婦関係のあやを綴ります。 片働きになって10年以上経つが、私は今でも、共働きに戻りたい。第一には、その方が家計が助かる。それに、生計を立てる大変さを分かち合える相手が欲しい。そして、正直にいうと配偶者を扶養することに抵抗があるのだ。もちろん、病気などで働くことが難しい場合は別だが、夫婦はそれぞれに自立した対等な関係でありたいと思っている。 10年前に、私たちは子どもをオーストラリアで育てる決断をした。夫はオーストラリアに渡り、育児に専念した。異国でひとり親状態の育児は、本当に大変だったと思う。息子たちにとっては父親がいつでも家にいてくれる安心感は大きな支えになったはずだ。日本で暮らしオーストラリアと行き来する私は、経済的な支援と子供たちと社会との橋渡しをする役割を自認し、オーストラリアで暮らす夫は家事をこなして息子たちの日々の生活を安定させ、新しい土地での基盤を築くことに注力した。 今となっては夫が子育てに専念したことには合理性があったと思う。でも以前は「一人で子連れ留学して、修士号をとって起業する人もいるのに」などとメディアで目にしたウルトラ稀有な事例と比べてしまうこともあった。それができる人もいれば、できない人もいる。しない人もいる。いろんな選択があっていいのだ。そう思えるようになるのに、何年もかかった。 私には「人並み以上に稼いでいる人間が偉い」という強烈な思い込みがあった。身近な働く男性といえば大手企業勤務の父しか知らず、入った会社も正社員は高待遇で、外車に乗って子どもを私立一貫校に通わせている人も多かった。自分はこういう世界でしか生きられない、ここからこぼれ落ちたくないという強い不安があった。1930年代生まれの両親は努力して貧困から抜け出し、戦後日本の経済成長とともに人並みに豊かになった人たちだ。私には、当てにできる財産も頼れる家名もない。中学から私立一貫校に入り、はたと気がついた。裕福な同級生とは異なる階層の住人である自分は、大学を卒業したら「稼ぎのいい男」を捕まえるか、就職して経済的に自立するしかない。そうでないと、せっかく小指の先で引っかかっているこの恵まれた世界から、滑り落ちてしまう。そこで、父と同様の高待遇の正社員を志した。 就活では、大手メディア企業の正社員に採用された。これで男性の収入を当てにしなくてもいいと誇らしく思った。でも今考えると、その心理には女性蔑視とマッチョな自意識が潜んでいた。高給取りの自分は、多くの無力な女とは違って経済的強者だ……女はみんな玉の輿狙いだと思っている男たちを黙らせてやる……これではまるで「俺は稼いでいる。カミさんを働かせるような甲斐性なしの男とは違う」と考える男性と同じではないか。 当時、大手放送局の女性アナウンサーは、お金持ちや有名人と結婚して芸能ニュースを賑わしていた。今はそういう人ばかりではないが、それでもまだ、“女子アナは金持ち狙いの計算高い女”という偏見は残っている。私は、お金持ちでも有名人でも大手企業勤務でもない男性と結婚した。世間のイメージに逆らいたい気持ちもあった。だけど振り返れば、その反発には弱者嫌悪と女性蔑視が染み込んでいたと思う。ゴシップを書き立てる“おっさんメディア”とそれを鵜呑みにする世間に腹を立てながら、自分はあんな金持ち狙いの女たちみたいな真似はしたくないとも思っていたのだ。メディアや世間と同様に、私も他人の結婚を金目当てだの打算だのとジャッジし、上方婚を望む女性を見下していた。かつて自分もそれを望んだにも関わらず。