「聖人・孔子」をプロパガンダに利用する中国の茶番 マルクスと孔子の対談動画が物笑いの種に
全体を通じて、孔子の立場をマルクスよりもやや優越させているような印象も受ける。中国共産党は、いまなお「共産党」を名乗って鎌とハンマーの党旗を掲げているため、マルクスの権威は決して無視できない。だが、実質的に資本主義を導入している中国社会には、かつてマルクスが批判したブルジョワジーによる生産手段の独占とプロレタリアートの搾取が、他国以上に深刻な形で存在している。 党としては、マルクスをひとまず神棚に乗せ、実際の政治運営においては儒教に代表される中国の伝統文化に基づく統治をおこなう考えなのだろう。漢代から約2000年にわたって存在した儒教的な専制体制は、広大な中国を統治するうえで最も有効性が保証された政治形態なのである。
念のために付言しておけば、実際に『論語』を読むと、孔子は自分が政治家としてスカウトされることを望んだり弟子と冗談交じりの掛け合いをしたりと、人間臭く面白い個性を持つ人物だったことが伝わってくる。 日本の江戸時代の国学者だった本居宣長は、かつて「聖人と人はいへとも聖人のたくひならめや孔子はよき人」(世間で聖人と呼ばれてはいるが、孔子は聖人らしからぬ好ましい人だ)という和歌を詠んだ。春秋時代の教育者だった孔丘という生身の人間と、後世の国家統治イデオロギーの象徴になった聖人・孔子は、似て非なる存在なのだ。
ただし、近年の中国共産党が復活させたがっている孔子は、後者のほうである。西側とは異なる体制のもとで党が人民を支配する道具として、「聖人・孔子」はいまなお必要とされている。
安田 峰俊 :ルポライター