虚無の声を「解毒」する複層性。池上裕子評「ホー・ツーニェン エージェントのA」展
シンガポール出身のホー・ツーニェンは、あいちトリエンナーレ2019にて《旅館アポリア》(2019)、2021年に山口情報芸術センター[YCAM]で開催された個展にて《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》(以下、《ヴォイス・オブ・ヴォイド》。2021)、同年末の豊田市美術館での個展で《百鬼夜行》(2021)と、近年立て続けに「日本三部作」と称される意欲作を発表してきた。東京都現代美術館での「ホー・ツーニェン エージェントのA」展は2003年のデビュー作から最新作の《時間(タイム)のT》(2023)まで、過不足ないセレクションで彼のキャリアを東京で展望できる、またとない機会となっている。 本展はそのタイトルのごとく、まるでエージェントのように、時間によって違う顔を見せる。それは3つあるメインの展示室を「A:《ヴォイス・オブ・ヴォイド》」「B:それ以外の作品」を見せる時間として使い分けているからだ。展示をいわば「A面」と「B面」に分ける構成は、つねに「時間」をテーマとするホーらしい演出だ。もちろん、レコードやカセットテープなど過去の音声メディアを思わせるこの比喩は、ややアナクロではある。だが、ホーがカセットで音楽を聞いて育った世代の作家であることを考えると、あながち的外れでもないだろう。実際、本展は、通常は映像作家として紹介されるホーが、優れたサウンド・アーティスト──あるいはサウンド・マニピュレーターと言ってもいい──でもあることを示すものである。 そのことは展示冒頭にある《CDOSEA》(2017–)にも明らかだ。これはホーが2012年から手がける「東南アジアの批評辞典(The Critical Dictionary of Southeast Asia)」をオンラインでプラットフォーム化した作品で、アルファベット毎に、東南アジアに関する用語とネットで採取した動画がアルゴリズムによってその都度組み合わされる。観客はその映像を、東南アジアの各地で採取された音源と、ホーが音楽家たちと制作したヴォーカル・パフォーマンスを聞きながら観る。それは「a for altitude, a for attitude, a for anarchism」などの言葉やその用法を淡々と読み上げるのではなく、時には中世の聖歌のように、また時にはミニマル・ミュージックのように音楽化し、この作品が通常の辞典が持つ客観性・中立性に疑念を呈する、まさに「クリティカル」な試みであることを雄弁に物語る。 「ささやき声」による錯覚と同一化 続く「A面」の《ヴォイス・オブ・ヴォイド》は、3対のアニメーション映像とVRという4つのパートで構成され、京都学派と呼ばれる哲学者たちによる戦時中の座談会やテクストを題材とする。本作についてはすでに山口情報芸術センター[YCAM]が出版した図録と複数の論者による評論があるため(*1)、ここでは京都学派やVRの技術について専門知識を持たない観客を想定し、音声の効果にも注目しながら展示を観ていく。 まず「左阿彌の茶室」と題された部屋で、観客は「この作品に声を貸してくださることに感謝します」というささやき声を聞く。観客はそれが自分に向けられているかのような錯覚を覚えつつ、一気に作品への集中を高める。そして「京都学派四天王」──高坂正顕、鈴木成高、高山岩男、西谷啓治──がこの部屋で1941年に行った座談会「世界史的立場と日本」についての解説を聞きながら、透過性のスクリーンに投影された4人の映像を観る。 後方にあるもうひとつの映像では、誰もいない茶室が映し出される。耳を澄ますと後方でもささやき声が聞こえ、西田幾多郎が1938年に行った公開講座「日本文化の問題」について説明している(*2)。ナレーションの内容は一部重なっており、茶室の映像も前景の4人の背景に見えるため、この多声的・多層的な構造は必ずしも即座に自明ではない。そのため、自分が何を聞き、何を見ているのかより明確に理解したい観客は──その欲求のスイッチは、ささやき声によって、すでに入っている──視覚と聴覚をフル稼働させて作品に没入していく。 次の「空」では田辺元が1943年に京都大学で行った講演会「死生」が取り上げられる。相対する2面のスクリーンの一方でガンダムのザクのようなメカが青空に飛翔し、もう一方では先ほどの茶室を戴く十字架型の建造物が浮かんでおり、作品の世界像が提示される。その建物は続く「監獄」の舞台で、表裏で対となったスクリーンは「京都学派左派」と呼ばれ1945年に獄死した三木清と戸坂潤のテクストに関する説明とともに、2人が劣悪な環境の独房に横たわる姿を映し出す。 本作では、5つすべてのナレーションで、題材となるテクストとその書き手が抱えていた矛盾や両義性──例えば、現在では戦争協力というイメージの強い京都学派が、じつは対米開戦に反対すべく海軍の派閥とも秘密会合を持っていたこと──などが説明される。また「左阿彌の茶室」と「空」では、座談会で速記者を務めた大家益造が後年に詠んだ、中国での日本兵による残虐行為や、学徒出陣を前にした学生に向かって戦死を賛えるかのような講演をした田辺を非難した短歌も紹介される。 ここまで7分45秒の映像が計5本。すでに約40分間、高度な集中を強いられているが、最後にVRを体験する「座禅室」ではさらに心身の自由に制限がかかる。ヘッドマウントディスプレイを装着した観客は、4人が議論を交わしている茶室に誘導され、速記者となって手を動かすと、その採録の朗読が聞こえてくる。観客はここで初めて、あのささやき声は、このVRのためにテクストを読むことを依頼された声優たちへの指示書という体裁を取っていたことに気づくのである。(もちろん、その指示書もまた、ささやき声で読むように指示された別の声優が読み上げているのだが)。 指示を受けているのは観客も同じだ。すなわち、事前に説明された通りに手を動かせば座談会の内容が、止めれば先述の短歌が聴こえてくるし、そのままじっとしていれば場面は瞑想室となり、西田の「日本文化の問題」が聴こえる。そして立ち上がると青い空でザク(=特攻兵)として田辺の「死生」を聞き、横たわると一気に監獄へと落ちて、獄中で三木や戸坂のテクストを聞くという具合だ。 このVRは、観客の動作によって視点や場面が切り替わる点でインタラクティヴであり、3対の映像を補完して結びつける点でも本作の要だ。だが同時に、速記者、特攻兵、受刑者との一体化を観客に強いるものでもある。本作の共同制作者である新井知行は、こうした強制性によってこの作品が「全体主義という『状況』に形式を与える試み」となっているのでは、という批判を仮定し、それに対して「シミュラクルを作ることが『魔祓い』になるというクロソウスキーの考え」を示している(*3)。 だがそもそも「自分への呼びかけ」と錯覚させる前半の「ささやき声」こそ、個人を国家へと同一化させる際に用いられる巧妙なレトリックと同じ効果を上げている、少なからぬ観客はそれが声優への指示であることに気づかなかったことがその証左ではないか、という星野太による手厳しい指摘もなされてもいる(*4)(ただ、このささやき声は、言論統制が敷かれていた時代状況を暗示し、ドキュメント調のナレーションが持つ権威性を異化するなど、複数の効果を持つことには留意しておきたい)。 「B面」と新作に見る豊かなプラットフォーム この問いについて私自身が明確な答えを持っているわけではない。ただ「B面」で上映される作品や音声は、この「虚無の声」をいわば「解毒」する効果があるように思う。《ウタマ─歴史に現れたる名はすべて我なり》(2003)ではシンガポールの地名をつけたとされる人物に付与された無数の名前を読み上げ、3Dアニメを用いた《一頭あるいは数頭のトラ》(2017)ではその植民の歴史をトラと人間がオペラのように歌い上げる。 またマラヤ共産党の書記長にして英・仏・日の三重スパイだったライ・テクを扱った《名のない人》(2015)には中国語版とベトナム語版があり(*5)、その二言語に通じていなければ、両者が本当に同じ内容を伝えているのか分からない。こうした多声的・多言語的な制作からは、あらためて「東南アジアの作家」としてのホーの問題意識が見える。そもそも日本の観客の一部が「ささやき声」に応じてしまったのは、それが「日本語」で発せられていたからに違いない。日本語を解さない者や、かつて日本語を強制された地域の出身者には、この呼びかけはどう聞こえるのか。また「日本三部作」は海外ではどのように受け止められるのだろうか(*6)。そうした多角的な視点を持ち得るようになっている点が、今回の構成の上手いところだ。 「没入」への欲求は観客の側にすでにあり、きっかけさえ与えられれば進んで自分よりも大きなものへと「同一化」していく。そのことを半ば強制的に露わにする点で、《ヴォイス・オブ・ヴォイド》にはあらためて人を戦慄させる力がある。ただ、ホーの作品はその意味を「正確に」読み取ることまで強いるわけではない。ホー自身が多くの作品で既存の映像をサンプリングして自身の解釈に供しているように、彼の作品もまた複数の読解に開かれているからだ。 したがって、《名のない人》に現れる様々な姿のトニー・レオンに思わず見惚れてもいいし──奇しくもこの名優は映画『無名』(!)という最新主演作でまたしてもスパイを演じている(*7)──逆に《名前》(2015–17)を観て映画産業による「孤独な男性作家」の表象があまりにも類型的であることに苦笑してもいい。なんならそれをフェミニスト・クリティークとして読み替えてしまっても、別にかまわないのだ。アルゴリズムでその都度編集される《時間(タイム)のT》(2023)や、会場のあちこちに配置された《時間(タイム)のT:タイムピース》(2023)もまた、観客を「正しい」見方に導くというよりは、人によって異なる反応を引き出すものだ。3つの展示室のあいだに挿入された《タイムピース》の部屋がほぼ「無音」なのも、観客それぞれの思索を許容する豊かなプラットフォームづくりに一役買っている。 ところで、上に論じてきたことからも明らかなように、「名前」もまたホーの一大関心事である。「東南アジア」自体が戦時中に米英が便宜的に使い始めた呼称であるように、「名付ける」ことは他者を自分の視点で理解してそのシステムに組み込むことであり、植民地主義イデオロギーを理解するには必須の要素だ(*8)。 じつは私はホーの名前について、アジアの現代美術に詳しい知人から「Ho Tzu Nyen(何子彦)」の名の読み方は、本来は「ズーニェン」のはずだと教えられていた。《旅館アポリア》でも英語字幕では「Tzu」、日本語字幕では「ツーニェン」だったのが気になっていた私は、彼に初めて会った際、まずは「あなたをどのように呼べばいいのか」と尋ねた。彼の返答は「どっちでもいい。そもそもTzu(子)にはあまり意味がないし、Nから始まるNyen(彦)も発音しにくい。だから友だちはTzu(ズー)と呼ぶけど、カタカナでツーニェンと表記されても全然かまわない」というようなもので、名前は「正しく」呼ばなければ、と思い込んでいた私を脱力させた。 ある人物や事象をひとつの名では名指せないこと。アイデンティティは流動的でしかあり得ないこと。そして、何かに完全に同一化するということは、どれだけ強制されたとしても、あるいはたとえ願ったとしても、できないこと。何時間も映像を観た後、軽い頭痛を覚えた私は、美術館の中庭で自分の名前についてのTzuの言葉を思い出していた。 *1──『ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声 YCAMとのコラボレーション』山口情報芸術センター[YCAM]、2021年。本作に関する主な評論として、以下の3点を挙げておく。 「京都学派の思想とその多重性とは。能勢陽子評『ホー・ツーニェン:ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声』展」「ウェブ版美術手帖」2021年6月22日。https://bijutsutecho.com/magazine/review/24195 馬定延「ホー・ツーニェン《ヴォイス・オブ・ヴォイド – 虚無の声》レビュー」『ART iT』2021年10月12日。 https://www.art-it.asia/top/contributertop/admin_ed_columns/218653/ 星野太「VRと国家」『美術手帖』2022年2月号、210~215頁。 *2──さらに耳を澄ますと、4人の座談会の採録が「アンビエンス」としてかすかに聞こえてくる。こうした極めて高度な音声技術はVRでも駆使されており、その詳細は以下で解説されている。「テクニカル・スタッフによる座談会」『ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声 YCAMとのコラボレーション』、65~70頁。 *3──ホー・ツーニェン、新井知行「対談:スタッカートとレガート」同上、60頁。 *4──星野太「VRと国家」を参照のこと。 *5──ライ・テクはベトナム生まれの華僑で、第一言語はベトナム語だが、中国語も使えたことによる。《名のない人》については、以下のインタヴューに詳しい。“Ho Tzu Nyen: In Conversation with Elliat Albrecht,”Ocula Magazine, August 8, 2016. https://ocula.com/magazine/conversations/ho-tzu-nyen/ *6──実際、2023年11月にシンガポール美術館でオープンした「Ho Tzu Nyen: Time & the Tiger」展では《旅館アポリア》が展示された。この展覧会は「Time & the Cloud」として2024年6月にソウルに巡回し、同月にニューヨーク州にあるバード・カレッジの美術館でも「Time & the Tiger」として開催予定である。 *7──《名のない人》の中国語タイトルは《無名》である。2023年の中国映画である『無名』の制作者は、そしてトニー・レオンは、ホーの《無名》を観たことがあるだろうか。 *8──《ヴォイス・オブ・ヴォイド》でも、序盤に「第二次世界大戦」が「大東亜戦争」や「中国抗日戦争」、「アジア太平洋戦争」など、多くの名称を持つことが紹介される。 *本稿執筆にあたり、ホー・ツーニェン、本展担当学芸員の崔敬華(チェ・キョンファ)、新井知行との対話から非常に多くの示唆を受けた。記して感謝します。
文=池上裕子