「娘を5円で売ることにしたよ」 昭和落語界の双璧・志ん生と文楽、仰天エピソードの真相から見える本当の関係
自分にないもので惹かれ合った2人
両者の引き際というのがまた、実に好対照だった。 都内のホテルで催された巨人軍の納会で一席を頼まれた志ん生が、壇上で倒れたのは昭和36年、脳出血である。しかし翌年には、右半身不随のまま復帰を果たす。舌の回りは悪くなる一方だが、それから6年近くも高座に上がり続け、なおも「独演会やりてえなあ」と漏らしていた。 志ん生が高座から姿を消して3年、文楽の雄姿は、昭和46年8月に国立劇場小劇場で開かれた「落語研究会」が最後となった。その日、晩年の文楽が得意とした「大仏餅」は、小気味よくはじまったが、あるところで彼は言葉を失う。登場人物の名前が出てこないのだ。一呼吸置いた文楽は、丁寧に頭を下げた。 「まことに申し訳ございません。勉強し直してまいります」 彼は、二度と高座に上ろうとはしなかった。 同年12月、日暮里の自宅にいた志ん生は、テレビニュースで肝臓を患っていた文楽の訃報を知った。79歳だった。おりしも、3日前に妻・りんを見送ったばかりだった志ん生の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちたという。彼の死出の旅は、その2年後の昭和48年9月だった。83歳の大往生で、少しの酒を含んで眠ったまま逝った。 前出・矢野氏の言葉である。 「人って自分にないものに惹かれるでしょ。どちらも、非凡な相手の技量をよく知っていた。志ん生は、文楽には絶対なれなかった。逆もまたしかり。だからこそありえたいい関係なんでしょうね」
駒村吉重(こまむら・きちえ) 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。 デイリー新潮編集部
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