「娘を5円で売ることにしたよ」 昭和落語界の双璧・志ん生と文楽、仰天エピソードの真相から見える本当の関係
正反対の人生
古今亭志ん生こと、美濃部孝蔵は明治23年、東京神田の生まれだ。小学校を中退し、奉公に出たがどこも長続きしない。 「あたしは子どもの時から酒が大すき、その上に十四、五くらいから賭場へ出入りして、バクチを打ち、スッカラカンに負けちゃって、ハダカでスゴスゴ家へ帰ったことも、たびたびあったんで、親父が怒ったのも無理はありませんや」(『なめくじ艦隊』) 15歳で家を飛び出した切り、ついにその敷居をまたがなかった。明治43年に20歳で、三遊亭小円朝に弟子入りして三遊亭朝太の名で噺家としての一歩を踏み出すことになる。 志ん生より2歳年下、東京育ちの文楽は、これより2年早く桂小南(初代)に入門していた。その才覚は早くに芽をだした。25歳のときに柳亭左楽門に移って真打ちに、28歳で8代目桂文楽を襲名し、若手人気芸人の筆頭と認められる。 志ん生は文楽より遅れること4年、大正10年に31歳で金原亭馬きんとして真打ちに昇進するも、まだ端席芸人のひとりにすぎなかった。酒が過ぎて席を抜くのはたびたび、師匠の羽織を質入れしたり、大御所と悶着をおこし講談に転向したりと、なにかと周辺に波風を立てる難物だった。
「喜美子を売ることにしたよ」
14回目の改名で、志ん生が柳家甚語楼(初代)を名乗っていた昭和4年、一家は夜逃げ同然で、本所区業平橋の通称「なめくじ長屋」に転居している。子ども3人を抱えた一家の暮らしは、どん底にあった。5歳になったばかりの次女・喜美子の養女話が持ち上がったのは、この年だった。 作家結城昌治による志ん生の評伝『志ん生一代』(小学館)にある、その場面である。夜更けに長屋に戻った志ん生は、妻・りんに藪から棒に切り出す。 「喜美子を並河(桂文楽)のとこへ売ることにしたよ」 「喜美子を売るって?」 「うん五円だ」 上野黒門町に住んでいた文楽の本名は、並河益義(ますよし)であった。子どもに恵まれなかった文楽が、ひとりを養子にもらえないかと打診したらしかった。 「それで五円で売ると言ったのかい」 「それは並河が言ったのさ。ご縁のしゃれだよ」 志ん生は、売れっ子の文楽の家で育てられる方が、子どもにとっても幸せだと、りんを説得した。数日後、喜美子の手をとり、市電で上野広小路に降り立った志ん生だが、途端に、気配を察した娘に激しく泣かれ往生してしまう。さすがの志ん生も、そのまま家に連れ帰った。