東海林のり子と振り返る平成【前編】ワイドショーが現場にいた時代 “宮崎勤の山林”から
[映像]東海林のり子さんインタビュー
東海林のり子がメディアの世界に入ったのは昭和32年、ニッポン放送のラジオが最初だった。そこでアナウンサーとしての基礎をたたき込み、リポーターとしてテレビに活躍の場を移したのが昭和47年。ワイドショーで事件を担当した。やがて時代は平成へと移り変わった。昭和から平成へ、そして令和へ。東海林が目撃してきた時代とは? 数々の事件とともに振り返る。
金属バットから宮崎勤 勢いづいたワイドショー
「昭和の終盤から平成にかけて、大きな事件が起きましたね。たとえば昭和55(1980)年の神奈川の金属バット両親殺害事件。20歳の予備校生が進学のことなどで悩んだ末に、両親を金属バットで撲殺しちゃうんですね。受験戦争が生んだ悲劇として話題になって、その辺りから何となくワイドショーに勢いがついて、とりあえず現場に早く行って現状をリポートしろ、みたいな風潮になってきたんですよ」 80年代に入ってしばらくすると、やがてバブル景気へ。テレビ番組を制作する予算も潤沢だった。ワイドショーは黄金期を迎えた。 「それで、昭和の終わりから平成にかけて宮崎勤の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起きました。各局とも競争で、何か起きれば現場から現場へと走り回る時代だったので、あの事件でも本当に朝も夜も走り回っていた記憶があります」 1988年から89年まで4人の幼女が誘拐、殺害された。遺族宅に殺害した少女の遺骨を送りつけ、新聞社に犯行声明文を送るといった猟奇的な“劇場型”犯罪は、社会を震撼させた。逮捕当時26歳の犯人、宮崎勤元死刑囚は2008年に刑が執行された。東海林はこの事件を、まだ犯人が判明する以前、初期の段階から取材していた。 「プールからの帰り道、家に着く前に、女の子がいなくなったというんですよ。何者かに連れ去られたようだと。私、そのときに現場を取材していて、女の子が連れ去られるのを見たという男の子に話を聞いているんです。どんな人だった?と。『男の人』って言ったんですよ。『シャツみたいなのを着ていたオジサン』って。ただね、その証言を取材するうちにすっかり忘れちゃうの。次から次へすごい密度で取材するから」 そうこうするうちに、“今田勇子”という名前を使っての犯行声明文が出た。 「犯人は女性なんじゃないかって説はもともと出ていたんですけど、一番最初に現場で男の子に“男の人だった”と聞いていたのを忘れていなければ、私も『いや、犯人は男性なんです』って言えたんですけどね」 あの事件は、かなり入れ込んで取材をしたと振り返る。 「やっぱり被害者が小さな女の子ということもあって、母親の立場で取材をするわけです。現場が山林だったりすると、うっそうとした木立の中で、『こんなところで……』と口に出る。実際に事件が起きた現場をリポートする意味は大きかったと思うんですが、それがだんだんとワイドショーも、そこまで行かなくなったんですけどね」