自殺未遂で保護入院も「私は病んでいない」 エリート官僚の“妄想うつ”に精神科医はどう向きあったか
川で自殺未遂を起こしたことで、宮崎恵一郎(仮名)は、精神科病棟に入院することになった。キャリア官僚の彼は、自らのささいなミスが「日本の行政にはかりしれないダメージを与えてしまった」と、極端な妄想にとりつかれていた。「自分が病んでいる」という意識もないため、治療は一筋縄ではいかない。精神科医で医学博士の西多昌規氏は、この患者とどのように向き合ったのか――。 【マンガ】精神科医や臨床心理学者らが監修した「自殺コミック」 (前後編の後編) *** ※この記事は、『自分の「異常性」に気づかない人たち』(西多昌規著、草思社)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。
本人が望まない精神科入院へ
本人は自分のことを病的と思っておらず、入院治療の必要性も理解していない。しかし、外来治療では自殺未遂の危険性など、本人の安全を守れないことがある。そのような状況では、本人の意志に反して入院を決定することがある。「医療保護入院」という制度である。わたしの医療的判断に加え、妻の同意が得られれば、医療保護入院は成立する。 わたしは、恵一郎が妄想をともなったうつ病の可能性が濃厚であり、入院環境下で治療しなければ、職場復帰どころか再び自殺を図る危険性が高いことを妻に対して説明した。妻には、迷いの表情でうかがわれた。何より、夫の異変と現在の状況が、まだ信じられない様子だった。 こともあろうに精神科などの厄介になるなんて、という不本意な気持ちがあったのも事実だろう。妻自身は取り繕おうとしていたが、なかなか隠しきれるものでもない。「最近は疲れた顔をしていたが、仕事が大変なだけで、そのうち山を越すだろうと思っていた。警察からの電話でびっくりした」というくらいだから、寝耳に水なのも仕方がない。 精神科にかかることにも、世間体からも望ましくないという思いがあったのは当然である。恵一郎は、将来を嘱望されたエリート官僚だ。夫の輝かしいキャリアは、もうこれで終わりかもしれない。ただ妻にも、このまま帰宅することには、強い不安があるのもうかがえた。 やや長い沈黙を置いて困惑は見せながらも、最後は、「お願いします」と、妻は医療保護入院に同意した。 わたしは恵一郎に医療保護入院を告知し、治療の必要性を再三にわたって説明したが、「入院はしません」と拒絶するのは変わらなかった。しかし、医療者の誘導に激しく抵抗することはなく、渋々ながら個室に入室した。硬い表情で横たわり、夜食以降の食事を一切拒絶した。 食べるようにすすめても、「食べたいと思いません」「わたしには生きる価値がありません。だから、食べる必要性がありません」と言うのみで、看護師のすすめに耳を貸すことはなかった。