自殺未遂で保護入院も「私は病んでいない」 エリート官僚の“妄想うつ”に精神科医はどう向きあったか
健康を偽装する「匿病」の心理
同僚や友人どころか、妻でさえ恵一郎の不調に気づかなかったのは、理由があるのだろうか。謎を解く鍵は、妄想性うつ病患者が持ちがちな否定的な自己価値観にある。 一般的なうつ病患者は、「なんとなく気分が沈む」「やる気が出ない」と感じるとともに、原因のはっきりしない体の重さや倦怠感や食欲低下、不眠に困るものである。自分でも「これはもしかしてうつなのかな」と認識しやすいので、他人や医者に相談できる場合も多い。 しかし、恵一郎も悩んだ恥辱や罪悪感、自責感、後悔の念など、「否定的な自己価値観」は、異常なものとは認識しづらい。いつのまにか自己否定感に吞み込まれてしまい、病的な変化として気がつきにくいのだ。 罪業妄想では、自分の無価値ぶりを高らかにアピールする。貧困妄想では、借金や破産をこれ見よがしに苦悩する。心気妄想では、医者が辟易するくらいに病気のことを心配する。 自分の異常性や疾患性を隠蔽する心理=「匿病」も関係している。これは病気を隠して健康を偽装することで、恵一郎の異変がまわりに気づかれなかったのも、「匿病」がうまくいっていたためである。 自分の悩み(妄想)をひた隠しにしていたのは、相談しにくいテーマであったとともに、「病気に思われたくない」という心理が働いていたと考えられる。 それは悪意からではなく、「自分の無能を知られると、左遷されてしまう」「病気だとわかれば、妻が離れていく」という、罪や罰を恐れる気持ちからだったのかもしれない。
治療の後日譚
その後恵一郎は、1ヶ月でなんとか無事退院し、今は職場に復帰している。入院当初は食事を拒んでいたため、脱水など身体的な問題が生じる可能性があり、栄養面での対処は急務であった。 水分・栄養分補給の点滴に対しては諦めたように無言で従うのみであった。ただ、抗うつ薬の服用については案の定、「薬は要りません」「ムダなことです」と、頑として拒否した。 妄想性うつ病は、休息していただけでは改善しないことが多い。自殺のリスクも高いため、のんびり構えているのは危険である。抗うつ薬による治療が、初期においてはどうしても必要だ。軽症のうつ病では、精神療法や認知行動療法など薬を使わない治療が有効だが、強固な妄想を抱える重症例では、そういうわけにはいかない。 一般に使用されている抗うつ薬のうち、1種類だけ点滴で使えるものがある。恵一郎に、点滴から薬剤を入れることを説明したが、「イヤですね」「勝手にしてください」など拒否はしたものの、投げやりながらも点滴を抜くなどの行動はとらなかった。 治療が進み5日目くらいから、「大したミスではなかったのかもしれない」「僕1人ぐらいが自殺しても、マスコミ沙汰にはならないですね」と、妄想的な確信が薄れてきた。食事も徐々にとり、看護師とも雑談をするようになった。1週間後には「薬飲んでみます」という申し出があったため、点滴は中止し錠剤に切り換えた。 後日、恵一郎にこんなことを聞いてみた。 「つらかったときに、医者に相談してみようという気にはならなかったのですか? 宮崎さんほどの頭のいい人ならば、うつ病の知識ぐらいはあったと思います。眠れないとか頭が回らないとか、実際にいろいろと困っていたかと思いますが」 恵一郎は苦笑いしてこう言った。「そのときは、そんなことはまったく考えませんでしたね。今思えば、そうしておけばよかったんでしょうが」 「そんなことはまったく考えていなかった」という言葉は、そのときの恵一郎の「病識欠如」をはっきり言い表している言葉である。 うつ病でも、このように妄想的で病識のない、「匿病」傾向のある患者は、思考の修正が 利かず、自殺のおそれが高いと言われている。恵一郎の場合は、抗うつ薬の点滴による治療 が奏効し副作用も生じなかったのは幸いだったが、薬剤の効果が乏しい、あるいは副作用 が生じるなど投与が難しくなった場合には、ほかの治療法を検討する必要がある。 *** この記事の前編では、同じく『自分の「異常性」に気づかない人たち』(草思社)より、エリート官僚の恵一郎に起きた“異変”が、ついには「自殺未遂」へと駆り立てるまでの過程について、詳述している。
【著者の紹介】 西多昌規(にしだ・まさき) 早稲田大学教授、早稲田大学睡眠研究所所長、精神科医。1970年石川県生まれ、東京医科歯科大学卒業。国立精神・神経医療研究センター病院、ハーバード大学客員研究員、自治医科大学講師、スタンフォード大学客員講師などを経て、早稲田大学スポーツ科学学術院・教授。日本精神神経学会精神科専門医、日本睡眠学会総合専門医、日本スポーツ協会公認スポーツドクターなど。専門は睡眠医学、精神医学、身体運動とメンタルヘルス、アスリートのメンタルケア。著書に『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(草思社)、『休む技術』(大和書房)ほか多数。 デイリー新潮編集部
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