戦場となったフィリピンの密林を逃避行、両親と弟2人失う「悲しかったけど進まないと」…玉音放送聞き投降
太平洋戦争で戦場となったフィリピンでは、日本から移住した多くの民間人も苦難を味わった。大分県中津市の日高軈子さん(89)は、密林の逃避行で両親と2人の弟を亡くした。 【写真】フィリピンで撮った家族写真。左端が軈子さん(日高正義さん提供)
同県出身の原繁治さん、頼子さんの次女として1935年、マニラで生まれた。繁治さんは現地の商業会議所の書記長で、プール付きの自宅にはお手伝いや運転手もいた。「父と海辺を散歩した帰りに食べるアイスクリームが楽しみだった」と、戦時でも穏やかだった頃の暮らしを振り返る。
しかし、44年12月、米軍の反攻作戦で両親と当時9歳の軈子さん、上の弟・高耿君、下の弟・晶君は他の在留邦人とマニラを脱出。クリスマスの直前で、軈子さんは「両親に文句を言った」。それでもリュックを背負って、どこかピクニック気分だったという。
だが、現実は違った。密林では敵に見つからないよう昼は木陰に隠れ、夜に移動した。約3000人の集団は栄養失調や病気で次々に人がいなくなった。食べ物も乏しく、「荷物を運ぶトラックが水牛になり、水牛も兵隊さんが銃で殺して食料になった」と語る。
従軍看護婦の母は病で倒れ、集団のリーダーだった父が駆けつけたが、間もなく亡くなった。数日後、父も倒れた。「誰か来て」と叫んでも誰も足を止めず、兵士が「お嬢ちゃん、もう駄目だよ」と死を告げた。戸籍上の死亡日は45年7月28日だった。埋葬はされず、兵士が木の枝や葉を刀で切って父にかぶせてくれた。
その後、晶君が崖から転落して亡くなった。看護婦の一人が残されたきょうだい2人の面倒を見てくれて、木の芽やミミズを煮炊きして食べた。「食べられるだけでありがたかった」
だが、高耿君とも川を渡る途中ではぐれ、翌朝、死亡を伝えられた。「悲しかったけれど、集団から遅れないよう進まないといけなかった」と振り返る。
逃避行は終戦まもなく、飛行機から流れる昭和天皇の玉音放送を聞いて米軍に投降するまで続いた。11月に帰国し、日本で進学していた兄の寔さん(故人)と大分県宇佐市や中津市の祖父母の家で別々に暮らした。