核使用の危機が迫るからこその受賞 ―被団協ノーベル平和賞の先に目指すべきもの
宮崎 智三
被爆地・広島を拠点とする中国新聞で、四半世紀にわたって被爆者を取材してきたジャーナリストが考える、日本被団協ノーベル平和賞受賞の意味と意義。ノーベル賞委員会が世界に向けて発した警鐘を、被爆国に生きる私たちは、より重く受け止めなければならない。
被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞が決まった。被爆地広島はもちろん、地元メディアの中国新聞にとっても喜ばしい。 記者として1990年代から四半世紀余り、取材現場で被爆者に関わってきた筆者にとってさえも、この上ない喜びだ。同時に、何か焦りのような気持ちも感じている。
「空白の10年間」を耐え抜いた被爆者
被団協は被爆40年の節目の1985年、平和賞に推薦されたのを機に、何度も候補に挙げられた。しかし今までは届かなかった。それだけに関係者の喜びは、ひとしおだろう。 この間、使用はもちろん、開発や保有まで全面的に禁じる核兵器禁止条約が発効した。広島と長崎の被爆者が長年訴えてきたことを形にしたような内容で、平和賞は、それに並ぶ朗報である。 被爆者運動の創始者や被団協の設立者は、道無き道を切り開いてきた。その苦労や努力を思うと、地べたをはうような被爆者の活動がようやく報われたという感慨が、わがことのように湧いてくる。 被爆者は戦後、米国の占領下で被害や苦しみの声を上げることもできず政府の救済策もない「空白の10年間」を耐え抜いた。 広島や長崎の原爆被害が注目されるきっかけになったのは、米国の太平洋での水爆実験による「死の灰」をマグロ漁船の第五福竜丸が浴びた54年のビキニ事件だった。放射線の恐ろしさに対する国民の関心が高まり、原水爆禁止運動が盛り上がった。そんな中、56年に日本被団協は誕生した。
「人類の危機を救う」決意
私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った―。被団協の結成大会で宣言された「世界への挨拶」には、核兵器の存在に脅かされる人類全体の視点に立つ崇高な思いが込められている。 被爆者は、原爆がどれほど人道に背いているか、訴えてきた。被害の痛ましさを知ってもらうため、差別や哀れみの視線が浴びせられてきた自らの傷跡を人目にさらすことも、いとわなかった。 海外でも積極的に活動を展開した。例えば1978年から3回、米ニューヨークの国連本部で開かれた国連軍縮特別総会。被団協は代表団を派遣し、82年の第2回では、被爆者として初めて長崎の山口仙二さんが国連で、自身のケロイドの写真を示して原爆の恐ろしさと核廃絶を呼びかけた。 2005年には核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて、会場の国連本部で原爆の被害を伝えるパネル展を開いた。 自分たちの味わった苦しみは、他の誰にも味わわせてはいけない。そう考えて、被爆者は原爆を投下した米国への怒りを胸の奥に閉じ込め、核兵器の恐ろしさを国内外で伝えてきた。 憎しみを乗り越え、報復の連鎖を断ち切れたのは、人類を自滅させてはいけない、という強い思いがあったからだろう。地道な訴えの積み重ねが、核兵器の使用は道徳的に許されないという国際的な「禁忌」の醸成につながった。平和賞の受賞は当然である。 むしろ、遅きに失した。もう少し早ければ朗報を共に喜べた、と思える被爆者たちの顔が、その言葉と共に幾つも浮かんでくる。