築地本願寺―「気宇壮大」と「東洋」の意味の転変。日本文化「孤独」の直視
もう一人の快男児
忠太はこの旅の途中で、大谷光瑞と出会って意気投合している。 大谷もまた快男児、そして稀に見る大物であった。彼がいなければ、すなわちこの出会いがなければ、築地本願寺は誕生しなかった。 本願寺派の法主でありながら、西域(中国の西を指す)、インドの仏跡を調査探検し(数回にわたる「大谷探検隊」)、日露戦争には教団からも兵を出し、孫文と会見しその顧問となり、近衛内閣の内閣参議も務め、世界(東洋)を舞台に活躍した。 つまり大谷は宗教思想として、忠太は文化思想として、ユーラシアを踏破することによって、西と東の歴史を連続させようとしたのだ。 これは、西欧(特にイギリス)とアメリカから、海を経て、東洋に襲いかかった近代文明の力に対抗する精神であろう。「一帯一路」ではないが、海のルートに対する陸のルートである。近代「西洋」に対して遅れたとされていた「東洋」を、悠久の歴史の中に復権させ、日本をその交点に位置づける。つまり、東洋の東端の島国がいち早く西欧近代文明を取り入れ、やがて東洋の盟主にという展望を開くものだ。
築地本願寺
昭和の世になって、法主であった大谷光瑞との関係で、忠太は築地本願寺を設計することになり、1934年に竣工している。 この時代の日本なら、もちろん従来の中国起源日本風の様式が基本だが、街なかであり、大震災の復興事業でもあり、耐火建築とすることが求められる。しかし洋風はもちろんモダニズムにも抵抗がある。忠太の設計は、古代インド風のシンメトリー(左右対称)で、ストゥーパ型の塔を有し、構造は鉄筋コンクリート、外装は石造、内装は木造となった。第一層は基壇の扱いで主階は第二層、階段を登って中に入れば、コンクリートの柱・梁(虹梁)の上に木造の組物と書院造風の折上格天井が乗る。外観の立面構成には洋風の匂いもするので、いわば近代技術によって、東洋(インド)を基本に日本風と西洋風を織り交ぜたものだ。 当時の日本には、西洋流の文明開化から東洋の盟主へと移行する意識があり、まさにその時代の基調となる思想を大胆に形態化したものといえる。このころの日本人の意識において、「東洋」とは、「インドから中国を経て日本へ」の軸線を意味し、その彼方にはペルシャとギリシャがあった。それが西欧・米国の「西洋」に対する「東洋」の構図であった。 また忠太には、若いころから妖怪や怪獣の趣味があり、そのスケッチをよくしていた。彼の設計にはそういった動物彫刻がよく登場する。本願寺の見ものの一つであるが、それも近代西洋的な合理主義に対するものであろう。 また代表作のひとつに、一橋大学兼松講堂があるが、これは西洋風のロマネスク建築である。建築家としての忠太の作品はほとんどが神社仏閣の和風であるが、西洋を毛嫌いしていたというわけではなく、東洋を通じて、日本と西洋を結びつけようとしたのだ。