築地本願寺―「気宇壮大」と「東洋」の意味の転変。日本文化「孤独」の直視
築地といえば築地市場だけでなく、インド風の堂々とした建造物「築地本願寺」が目を引きます。日本国内のどの仏教寺院とも異なるたたずまいをもつ築地本願寺の建物はどのように誕生したのでしょうか。 多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが歴史をひもときます。
築地の異空間
築地といえば魚河岸だ。このほどその移転が社会問題となったのだが、通りを挟んで反対側に、一風変わった建築がある。 浄土真宗の築地本願寺である。とはいえ奈良や京都や日本各地の仏教寺院とは似ても似つかない、不思議な形をしている。日本の建築といえば、日本風か、西洋風か、近代風か、どれかに決まっているが、どれでもない、インド風の様式なのだ。しかもよくあるイミテーションではなく、本格的な石造りの外観である。魚河岸と本願寺は、銀座という高級ブランドが並ぶショッピング・ストリートに対峙する不思議な異空間であった。 「仏教」という日本人の心の基底に、このような異空間が登場したのはどういうわけか。 そこに、伊東忠太という、建築家でもあり、歴史家でもあり、探検家でもあった一人の人間が浮かび上がる。
西洋対東洋
「これ(西洋流の自由)に反して昔しから東洋じゃ心の修行をした。その方が正しいのさ」(夏目漱石『吾輩は猫である』) 築地本願寺の設計者伊東忠太は、夏目漱石と同じ、明治維新の前年に生まれた。踊りながら他人の家に上がり込んで勝手に飲み食いする「ええじゃないか」が日本各地に広がった年だ。 翌年日本は未曾有の体制転換を遂げ、藩の代わりに県が置かれ、支配階級であったサムライがいなくなり、すべてが西洋風に向かう。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という時代である。 十歳のとき、人生観を決めるできごとに遭遇した。 西南戦争である。今日の写真に当たる錦絵を見ると、官軍は軍服姿で銃を構え、薩軍(賊軍)は羽織袴に剣をもつ、すなわちこれは近代的な軍隊とサムライの戦いであり、文明と文化の戦いであった。しかも賊軍の頭目は、当時もまた現在も日本人の敬愛を受けつづける人物西郷隆盛である。 多感な少年の心に、西洋追随の文明開化に対する疑問と反感が蓄積され、「西洋vs東洋」という構図が形成される。 漱石は小説家に、忠太は建築家になるが、どちらにおいても、西洋と東洋の相克、文明と文化の葛藤が、人生そのもののテーマとなったのだ。