築地本願寺―「気宇壮大」と「東洋」の意味の転変。日本文化「孤独」の直視
法隆寺とパルテノン
伊東忠太は帝大卒業後、大学院に進み「法隆寺建築論」を表す。これが生涯を決定する著作となる。 斑鳩の法隆寺とギリシャのパルテノン神殿とを比較し、両者のあいだに何らかの関係があるとしたのだ。プロポーション全体の相似性、曲線美などについて研究したものだが、社会的には特に「エンタシス」(柱の下部が膨らんだ形)の共通性が取り上げられ、話題となった。 突飛なようだが、この観点によって、日本の仏教文化が中国やインドをとおりこして一挙にギリシャに結びつけられることになる。古代日本とギリシャとの関係は、明治の日本人が喉から手が出るように欲した魅力的な論理であった。すべからく欧米にならえという「脱亜入欧」(福沢諭吉)の時代であり、そのヨーロッパの文化的原点が古代ギリシャにあることは明らかであったからだ。 芥川龍之介はギリシャを「東洋の永遠の敵」と呼び、三島由紀夫は「眷恋(恋い焦がれる)の地」と呼んでいる。西洋的な知性を感じさせる芥川と、国粋主義的言動で知られる三島であるから、逆のようだが両者は同じ意味であろう。
東洋への旅
忠太はこの関係のルートを検証するために、中国から、インド、ペルシャへと、三年にわたり調査旅行する。ロバに乗って。 当時の旅行事情を考えれば、これは大冒険。気宇壮大な知的ロマンの快男児だ。 残念ながら、法隆寺とパルテノンを結びつける決定的な証拠は得られなかった。今日の建築学においてもその直接的なつながりは否定されている。しかしエンタシスはともかく、インドの石造建築に見る組物(中国と日本の木造宗教建築における柱上軒下の造形、斗きょうともいう)に近い形態、ギリシャ彫刻に近いガンダーラ仏と日本の仏像の関係を考えれば、古代日本の仏教建築と古代ギリシャの神殿建築は、あながち無関係ともいいきれないのではないか。文化の関係には、共振ともいうべき、微妙な風が吹くものである。 いずれにしろ、インドから始まって、ギリシャ、ペルシャの影響を受けながら、東洋全般に広がった仏教は、当時最大の国際思想であった。西の世界にキリスト教とイスラム教が拡大するのはその少しあとのことである。