生成AIはコンテンツビジネスを「殺す」のか? 「職能価値低下」の末路
問題は「職能の金銭的価値が下がる」こと
こんな話をすると、次にこういう反論が来る。「それは、誰にでも書ける、オリジナリティや専門性のないライターが失職するというだけの話だ。独自の着眼点や発想、文体、確固たる専門領域をもっているライターは、仮に説明文であっても、AIに取って代わられることはない」。 これも楽観論すぎる。無論、腕のあるライターの仕事はなくならないだろう。しかし懸念すべきは、生成AIの普及によって、「文章というものは、基本的にタダで作れる。わざわざ金をかけて外注するようなものではない」という“常識”が世の中に浸透することではないか。 そうなれば、分野にもよるだろうが、特にB to Bライティング案件の発注単価の下落は避けられないだろう。「安価な電卓が普及したことで暗算に長けた者の地位が下がった」「火器が普及したことで刀の使い手が戦争で不要になった」と同じで、ライティングという能力の(金銭的対価に置き換えた)価値が社会的に下がるわけだ。 「文章というものは、わざわざ金をかけて外注するようなものではない」の「文章」部分が、「イラスト」「動画」「漫画」「小説」「音楽」「脚本」「物語性を伴った映像作品」に置き換わる未来は十分に想像できるし、一部はそうなりかけている。今後もし、作品制作に金銭的対価が発生しないケースが増えていった場合、産業として“破壊”されるのでは? という懸念は杞憂に過ぎるだろうか。
Yahoo!ニュースの閲覧に「予算」を割く人はいない
先ほどの「100点」と「75点」の話に戻る。ここで、エンタテインメントコンテンツにおいて人間の作る「100点」を「目の覚めるテーマ、非常に斬新な切り口、ムダがなく美しい展開、かつ深く没頭できるもの」。生成AIの作る「75点」を「過去のヒット作の諸要素が体よく切り貼りされており、特に斬新さはないが、破綻なくまとまっていて、そこそこの満足度を得られるもの」と定義してみよう。 現状、生身のクリエイターと付き合いのあるエンタテインメント企業やその関連企業は、発注先を生成AIに一斉置き換えするようなことはしないだろう。少なくとも今までは、相応の発注予算をもとにしたビジネスを回せていたわけであるし、「75点」ではなく「100点」を目指すことに意味や価値を見いだせる人たちが会社を回している(可能性が高い)からだ。 しかし、もともとそのような業務を行っていなかった異業種企業に、必ずしもそのような感覚や価値観はない。はなから「生成AIで75点の成果物が得られればいい」と考えているなら、テキストやイラストや動画が業務上必要になったとしても、予算には組み込まない。我々がYahoo!ニュースやWikipediaの閲覧行為を「予算化」しないのと一緒だ。そこに悪気はない。コスパを考えて「使えるものを使っている」だけだ。