生成AIはコンテンツビジネスを「殺す」のか? 「職能価値低下」の末路
参加プレイヤーが増え、多様性が増す
経済が回るかどうかは別として、クリエイティブ分野における生成AIの普及が確実にもたらすことがある。作品数の激増だ。その道のプロでなくとも、つまり創作技術を修練した者でなくとも、生成AIによってゼロイチで長文やイラストや楽曲や動画、そして脚本や漫画についても(水準に達していないものであれ)作ることが可能になるし、すでになりかけている。 小沢氏はこのことをポジティブに捉えている。 「僕、子供のころに作文が書けなかったんですよ。1行書いては消し、1行書いては消し……で一向に書き上げられなかった。でもワープロが登場して、文字列のコピペや移動が簡単にできるようになったことで、ようやく文章が書けるようになりました。 生成AIもワープロと同じですよ。今まで絵を描きたい欲はあっても、どうしても絵を描くための訓練が苦手だった人が、生成AIを使うことですごい絵の才能を発揮するかもしれない。楽器を弾けない人、楽譜が読めない人が、すごい曲を作るかもしれない。今まで生まれ得なかった作品が、生成AIによって生み出される可能性が出てきた」(小沢氏) 写真と同じだ。かつて写真は、高価な機材を揃えられる財力のある者にしか取り組めない芸術だった。ところがデジカメが登場してフィルム代と現像代が不要になり、高性能カメラを備えたスマホが登場して補正などのアシスト機能が充実すると、写真を撮るという行為に参加できるプレイヤーの数が激増した。それにより、従来のプロカメラマンが発想しなかった写真の撮り方や写真によるコミュニケーションが無数に生み出され、写真文化の多様性は増した。 小沢氏の言う「今までだったら生まれ得なかった作品」の出現によって、あらゆるエンタテインメントジャンルで作品の物量が増えるだけでなく、作品の多様性も増す。量的にも質的にも市場が大きくなる。
新しい方法で到達するための新しいツール
もうひとつ。生成AIは作品制作の方法を多様化させただけであって、省力化したわけではない、とも言える。前回の記事で小沢氏は省力化について「いいとこ一桁、なんだったら3%くらい」と語っていたが、むしろ生成AIには別の面倒くささがあると指摘する。 「生成AIでゼロから漫画を作ってる人はすでに結構な数いますが、僕の知る限り、従来の漫画制作と同じくらいの面倒くささで作ってます。生成されたものに、細かく『これはOK、これはやり直し』という判断を無数に下して、それを紡いでいく。ものすごく地味な作業を繰り返して、完成に近づけていく。 同じことは作曲にも言えるでしょう。楽器を実際に弾ける人からしたら、MIDIベースでちまちま打ち込んで曲を作るなんて、面倒くさすぎて冗談じゃない作業じゃないですか」(小沢氏) 「省力化」に大して寄与せず、相応の「面倒くささ」が伴うことからすれば、エンタテインメントジャンルにおける現在時点での生成AIは、一定数の生成AI活用者がよく口にするように、ある結果に新しい方法で到達するための新しいツールにすぎない。その意味では、ワープロ、デジカメ、Photoshopといったガジェットやツールと、ある意味で同列上にある存在と言えるのではないか。