イタリア人が「仕事」と「プライベート」を分けない理由
イタリアの社会は公私の区別が曖昧だ。仕事の時間にも平気で家族や友人とおしゃべりをするし、そのおしゃべりに客も参加してくる。それは、イタリア人は仕事を「労働」ではなく「人生」と考えるところから来ている。幸せに生きるヒントがそこにあるかもしれない。日経ビジネス人文庫『 最後はなぜかうまくいくイタリア人 』(宮嶋勲著)から抜粋。 ●いつでも仕事し、いつでもサボる 「公私混同はいけません。ちゃんとけじめをつけましょう」と子どものころから教えられる。日本でもそうだし、外国でも多くの国でそうだ。 これはそのまま「仕事の時間」と「オフの時間、休暇の時間」と置き換えてもいいだろう。だから仕事中に私語は慎むべきだし、電話で家族とおしゃべりしたり、携帯でゲームなどしたりしてはいけない。 一方、とくに外国のいくつかの国では、オフの時間に仕事が割り込んでくることを極端に嫌う。「いまはプライベートの時間なので、ここにいるのは私人としての私であって、公人としての私ではありません」という態度である。「同じ人間なんだから、別にちょっとぐらい仕事の話をしてくれてもいいじゃない」というなれなれしい甘えは許されない。 だから、「仕事のときは全力投球でとことん働きます。オフになったらこちらも全力で120%遊びます」といったような、暑苦しいバブル期の企業戦士的モラルを誇らしげに語る人もいた。私も公私を明確に区別して「けじめをつける」のはいいことだと思っていた。イタリアという国を知るまでは。 イタリアでは、公私の区別が曖昧だ。というより、公私混同が激しい。しかも、激しければ激しいほど、社会に活気が出て、皆が生き生きとしているような気がする。 公共窓口では、受付の人が携帯電話で家族か友人と無駄話をしている間、サービスが停止して、長い列をつくって並んでいる人が待たされるということも普通だし、レストランでもサービスの人がおしゃべりに熱中して、客が呼んでいるのに気づかないということも珍しくない。「私語を慎む」という概念はおおよそ存在しない。思い立ったが吉日ではないが、「思い立ったときがおしゃべりタイム」なのである。 笑ってしまうのは、そのおしゃべりに客も頻繁に参加することだ。本来なら待たされる側の客は、おしゃべりにより不利益を被るので、「反おしゃべり」の立場であるべきなのだが、そもそもそのようなけじめが存在していない人たちなので、いまそこにあるおしゃべりの快楽に目を奪われるのである。 ただ、一方、「私」の時間に仕事が割り込んでくることにはかなり寛容である。家族経営の中小企業が多いこともあり、家族の食卓がいつの間にか営業会議になって、大いに仕事の話で盛り上がり、そこで素晴らしいアイデアが出てくるということもよくある。 また、さすがに時間の概念に著しく欠けているだけあって、自らの労働時間に関しても、権利意識が低い。だから意外に残業に関しても寛容で、少しぐらい時間がずれ込んでもあまり気にしない。「あまり細かいことは言わない」人が多いのだ。 ワイン関係の取材をしていると時間がずれ込んでいくことが多い。12時のアポが13時にずれ込んで、昼ご飯時にかかってしまうということもあるが、イタリアではたいていの場合待っていてくれる。対照的なのはフランスで、アポがあろうがなかろうが、時間になったらシャッターを閉めるという考えの人が多い(とくにオーナーではなく従業員の場合に多いが、もちろんこれは責められることではなく、悪いのは当然遅れたほうである)。 イタリア人は時間にルーズだが、他人がルーズであることにも寛容なのだ。自分の都合のいいように物事をフレキシブルに考える癖があるが、他人がそうすることにも理解がある。ある意味、驚くほど一貫しているのだ。