イタリア人が「仕事」と「プライベート」を分けない理由
仕事は「労働」ではなく「人生」である
しかし考えてみれば、公私の明確な区別、とくに仕事の時間とオフの時間の区別は、実は労働が商品として資本に売買されるという、「疎外された労働」とも密接に結び付いている。 労働時間は「賃金をもらう代わりに提供した時間」で、「賃金を払った資本のものになってしまった時間」だから、もう「私のもの」ではなく、勝手に使うことは許されない。一方、オフになったときはようやく資本に買われていない私を取り戻せるので、そこに仕事=私を奪うものが入り込んでくることは許せない、というのも理解できる話である。 プライベートが勝手に入り込んでしまっている仕事の時間は、ある意味「まだ疎外されていない時間」である。だから大げさな言い方をすれば、仕事の時間であるにもかかわらず、労働者は主体性を持って、自らの時間を生きているわけだ。 わかりやすい例として、銀行の窓口業務をしている人と、駄菓子屋の店先に座っているおばあちゃんを比べてみればいいだろう。銀行の窓口にいる人は業務を遂行していて、そこに「私の時間」が入り込む隙はない。ほとんど全人格的に業務にまい進しているのである。 駄菓子屋の店番をしているおばあちゃんも、たしかに駄菓子やメンコを売るという業務は遂行しているが、同時にそこはおばあちゃんの本来の居場所であり、「私の時間」を十分に生きる場所でもある。知り合いが訪ねてくればおしゃべりもするだろうし、子どもたちと遊んだり、説教をしたりもするだろう。そしてそのついでに駄菓子を売ったりもするのである。 ここでは公私の区別はきわめて曖昧で、それぞれの時間は簡単に行き来することができる、ゆるやかで寛容な世界だ。その分おばあちゃんは疎外されておらず、十全な時を生きていて、おそらく幸せである。むしろこの居場所を奪ってしまうと、おばあちゃんは疎外されて、不幸に陥るだろう。おばあちゃんにとって駄菓子屋の店番は人生そのものであり、生きがいでもあるのだ。ここでは「仕事の時間」と「私の時間」は幸せに溶け合っている。 イタリアは、皆が駄菓子屋のおばあちゃんのように働いている国と考えればわかりやすいだろう。資本により売買されたはずの労働が、持ち主=労働者の勝手な解釈によっていとも簡単に取り返されて、好きに使われているのである。だから、契約概念がもっと進んだ国と比べると、労働の疎外のレベルは低いし(もちろん労働のレベルも低いが)、働いている人がどこかのんきで楽しそうなのだ。 ホテルのチェックイン窓口で人が何人も並んでいるのに、受付の人が客とダラダラとおしゃべりをして、イライラさせられるという光景にしょっちゅう出くわす。しかしこれはいいように解釈すれば、受付の人は業務に縛られずにまだ自分の時間を好きに使うことができる、「疎外されていない」恵まれた労働者なのである。そう考えるようになってから、私は腹を立てることが少なくなった。